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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO285) 気功・太極拳とのご縁に生かされて (その1)神様に導かれた楊名時太極拳への道のり  ( 2018/11/01 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 今から12年前(2006年)の11月1日に、私は義弟の勧めもあって、月に2回のペースで私自身のコラム“いい日・いい人・いい出会い”をスタートさせています。
 今年の7月までは、コラム書きに苦戦をしながらも、何とか月2回のペースは続いていたのですが、実は今年、82歳の誕生日(2018年6月26日)を迎えた頃から突然、足腰に異変を感じるようになり、その異変が何故か、足腰とは無縁と思われるコラム書きにまで狂いを生じさせている自分に気付かされているのです。私のコラム書きは8月、9月、10月と、3ヶ月あまりもブランクが続いたままになっていて、今日やっとの事でこのコラムを書こうと思うに至りました。

  私の足腰の異常は、50歳を過ぎた頃からの、無謀とも思える走り過ぎによる股関節狭窄症であることが判明し、今更ながら納得の大反省をさせられているところです。
 私は50歳を過ぎた頃から突然、それまではまるで雲の上の世界と思っていたマラソンの魅力にとりつかれ、約20年をかけて、5万キロ(地球一周は4万キロだそうです)を走破していたのでした。その頃の無知無能の私は、“人生は走れば走るほど元気になる”との、とんでもない間違いだらけの妄信に惑わされていたに過ぎなかったのです。

  無知無謀ながらも、マラソンに“青春真っ只中の喜び”を感じていた私に、神様はにっこりとほほえみながら、沢山の信じられないようなご褒美と、大きな気づきと、更なる大きな太極の道に通ずる喜びの世界にご縁をつなげてくださっていたに違いありません。
 その喜びの最たるものは1996年、私が60歳になった時の3つの出来事です。

@ 沖縄最南端の波照間島からスタートして、沖縄本島を縦断、九州、本州を駆け抜け、  北海道の宗谷岬までの日本縦断“桜駅伝3000キロ走”を3ヶ月かけて走破した事。
A ボストンマラソン100回記念大会に出場を許され、無事完走出来た事。
B アトランタオリンピック聖火ランナー日本代表の一員にも選出され、アメリカ・ネバダ州ラスベガスの聖道を1キロに渡って走らせてもらった事。
 今から思えばそれらの事事は、まるで夢の中を彷徨っていた至福の時であったような気がいたしております。

 1996年8月3日の事でした。上記の3つの大きな喜びを成し遂げ、いささか有頂天になっていた私は、突然の大きな試練に見舞われる事となりました。
それは台風襲来の前に、庭の樹木の伐採をしていた家内が3〜4メートルの崖から落下。家内は救急車で病院に運ばれたのですが、病院に着いた時の血圧は、上が40という、まさに死線をさまよう絶体絶命にも近い状況で3ヶ月もの入院を余儀なくされたのです。

 誠に幸いにも家内は3ヶ月で手足が動かせるようになり、車椅子で廊下を移動出来るようになった時、リハビリ室の壁にあった1枚の張り紙が目に止まりました。その張り紙には“気功で元気になりませんか”と書かれてありました。家内の元気回復を藁をも掴む思いでいた私は、無我夢中で気功の世界に没入しておりました。気功を指導して下さったのは、クリスチャンの牧師さんでした。
 その頃からの私は、人間の命について模索する日々が続いていたのですが、2002年4月3日、私は、今では“生命の恩師”と慕う帯津良一先生と出会える好運に恵まれたのです。帯津先生はその日の講演会で、「21世紀養生塾」のお話をされましたが、私は帯津先生のお話に心身が震える程の感銘を受け、帯津先生の病院に何度も足を運び、とうとう沖縄にも「21世紀養生塾」の支部を発足させていただける事にまでこぎつけたのです。
 沖縄に21世紀養生塾がスタートしたのは、2003年11月30日の事ですが、特筆すべきは、沖縄養生塾発会式に、帯津先生が、その後の私の人生を大きく変える事となった、太極拳の楊名時先生をお連れして下さった事です。

 私は、楊名時先生の事は噂には聞いておりましたが、お会いするのはこの時が初めてでした。私は楊先生にお会いした瞬間から、楊先生に魅せられ、その頃から、残された自分の人生の全てを楊名時太極拳の世界に没入したいと思うようになっていきました。
  楊名時先生は誠に残念ながら、10年程前に他界されましたが、私の心の中にはいつも楊先生がいて下さっております。私は楊名時先生の事を一日たりとも忘れることはありません。何故なら、私は何があっても毎日楊名時先生の太極拳を舞わない日はないからです。どんなに足腰が痛くとも、そんな時は椅子に座って練功するのです。

 私は楊名時太極拳にご縁を頂いて、今はこれに優る幸せ人生はないと思えております。
ここに至ったすべての人生の出来事に感謝をいたします。   合掌

                       2018年10月31日の記


奥田のコラム(NO284) ”母、マリア・マサエを偲ぶ会”In横浜(2018・7・7) ( 2018/07/31 )

 
 マリア・マサエばあちゃんの写真

 
 会場の慶福楼

 
 幹事の三枝秀平くんの挨拶

 
 会場風景その2

 
 長老組を囲んでの集合写真

 
 最年少組を囲んでの集合写真

 私の父は今から68年程も前に、60歳で他界している為に、父の印象は私達も、もうかなり薄れかけているのですが、母は父の亡き後も88歳まで実に元気で長く生きてくれましたので、母の印象は亡くなって27年が過ぎた今でも、私達兄弟は勿論の事、多くの孫たちまでもが、母(ばあちゃん)の事はまだかなり良く覚えているらしいのです。

 母が元気で長く生きてくれたお陰で、私達7人の兄妹(男6人・女1人)は母を中心に、それぞれの人生を懸命に生きて、今では22人の孫が生まれ、更には33人のひ孫もこの世に誕生し、それぞれの連れ合いを含めると、総勢70名程の一族に拡がっている事を知るにつけ、今更ながら、人生の不思議に思いを深くさせられているところです。

 母の27回忌を迎えるに当たり、私の妹から、『この際、今度は孫達を中心にした“偲ぶ会”をしてはどうだろうか?』との提案があり、18番目の孫に当たる、沖縄在住、三枝秀平君が、その先頭に立って総指揮に当ってくれたお陰で、この度、初めての“マリア・マサエを偲ぶ会”が実現した事に深い感銘を受けました。

 集合の日時は2018年7月7日(母の27回の命日)、集合場所は、今家族が一番多く住んでいる横浜中華街「慶福楼」と決まり、横浜・東京・沖縄・新潟・大阪から大勢が駆けつけてくれました。その中の最年長者達は横浜在住の小野太郎さん(87歳)、横浜在住の奥田悟さん(85歳)、沖縄在住の私奥田清志(82歳)・妹の三枝祥子(70歳)、最年少者は沖縄のひ孫、當銘音羽ちゃん(2歳)、希望君(4歳)までの総勢52名がこの“偲ぶ会”に集まってくれたのですから、感無量の27回忌となりました。

 一つだけ残念であった事は、私達の原点である故郷の“土佐の高知”からは、今回は誰も出席出来なかった事が心残りでした。最も嬉しかったことは、“偲ぶ会”に集まった孫達が、「これからは集まれる人が集まって、毎年何処かでやろう」との意見が出たとの事で、これにはさぞかし、天国の両親も喜んでくれているに違いありません。

 22人の孫の中には早くから2人が遠くアメリカに人生の拠点を移し、それぞれの人生を歩んでくれております。15番目の孫の“日和”(ひより)さんの旦那さんは、今若者の間で大人気のギタリスト、マーティン・アダム・フリードマンさんです。
 22人の孫や33人のひ孫達が、これからどんな世界に羽ばたいて行くのであろうかと思うと、私は何としても100歳までは生きて、孫・ひ孫達の行く末を見届けて、天国の両親に報告したいものだと自分に言い聞かせているところです。

 “マリア・マサエを偲ぶ会”を実現させてくれた三枝秀平君と、そしてその会に集まって下さった全員の方々にも、心から有難うと申し上げます。
 尚この日は“偲ぶ会”が終わった後も、大勢の方々が父・母が眠る横浜市の保土ヶ谷霊園をお尋ねくださり、両親のお墓参りをして下さいました。
                 2018年7月30日の記

* 母親のマサエの名前の前にマリアという名前がついているのは、母は晩年、沖縄に住むようになってから、私の妹の影響もあってか、クリスチャンの洗礼を受け、最後はマリア・マサエとして天国に旅立ちました。マリア・マサエさんは、沖縄が大好きで、『私は亡くなる時は、沖縄から天国のお父さんのもとに行きたい』と申しておりました。
                         


奥田のコラム(NO283) 立川志の輔・第109回沖縄独演会の記 ( 2018/07/26 )

 
 志の輔落語の会第109回

 
 本日の演目

 
 志の輔落語の記事(琉球新報社)

 
 楽屋訪問

 
 楽屋訪問・北山亭めんそーれさんともご一緒に

 
 

 2018年7月15日に、落語の立川志の輔さんの独演会がありました。今回の独演会には、琉球新報新本社ビル落成記念というタイトルが付けられておりましたが、私達夫婦は立川志の輔さんとは29年間の長いご縁が続いていて、今回もまた、何はさておいてもの参加をさせていただきました。志の輔さんのお話の中に、まさかと思える数々の事が語られましたので、そのいくつかを紹介し、志の輔さんと沖縄のご縁の深さを紹介しようと思います。

 立川志の輔さんが初めて沖縄に来られたのは、今から29年も前の1989年6月の事であったとの事です。その当時、沖縄国際通りの地下に、“沖縄ジャンジャン”という小劇場があって、志の輔さんはその時は、3年前に故人となられた永六輔さんに連れられて、その“ジャンジャン”に出演されたのが、沖縄への第一歩だったとの事です。

(ちょっと余談になりますが)、今から29年前の沖縄初公演の翌日、永六輔さんからのお薦めで、ぐるりと沖縄観光をされた時、あまりの沖縄の海の美しさに魅せられ、すっかり沖縄の虜になってしまったそうです。 そして、その時の沖縄観光の案内を任されたのが、何と私の家内と、その当時小学校6年生であった末息子の“淳平”であったとの話を、今回の公演の初っぱなに公言されたのには、私達はまさかのびっくり仰天でありました。
その後の志の輔さんは、ご自分に生まれた息子さんに“ジュンペイ”君という同じ発音の名前を付けて下さっておられるのですから、志の輔さんとのご縁の深さを、私達は生涯忘れてはならないと思っているのです。

 さて29年間に、志の輔さんは殆んど沖縄全島を回られ、今回の琉球新報本社ビル落成記念公演が何と、沖縄109回目の公演というのですから、この数字にも驚かされてるのです。更に驚かされる嬉しい事は、29年前の沖縄は、まだ殆んどの人が落語の事、志の輔さんの事も知らなかった筈なのに、29年後の今では、志の輔さんの沖縄公演が新聞で発表されると、一夜にして入場券が完売されるのだそうですから、本当に凄い事だと思います。
 今回の琉球新報公演も、即座に606席(入場料¥4000円)が完売されたとの事ですから、29年前を知る志の輔ファンの一人として、これ程嬉しい事はありません。ひとえに立川志の輔さんのお人柄と、血の滲むような努力を積み重ねてこられた実力の賜物と申し上げる他はありません。

 今回の独演会の“出し物”は、第1部が新作の「バールのようなもの」、第2部が古典の「井戸の茶碗」でありましたが、志の輔さんの話術の凄さに、私は息をするのも忘れるぐらい、志の輔落語の世界にのめり込まされておりました。
 公演当日の様子については翌日の琉球新報に大きく記事が出ておりますので、そのままコラムに掲載させていただきました。

 公演終了後に楽屋を訪問し、次回(2018年11月3日)の沖縄国立劇場での第110回記念公演での再会をお約束し、お別れをいたしました。
今や日本一の人気落語家と評される立川志の輔さんとの29年間のご縁に感謝し、そのきっかけをつくって下さった(故)永六輔さんには更なる感謝の合掌を捧げて、今回のコラムとさせていただきます。有難うございます。
                 2018年7月25日の記

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