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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO294) 2020年のスタートとコロナ騒動 ( 2020/06/22 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2006年から、月2回ぐらいの割合で続けていた私のコラムは、今年(2020年)に入って約半年間、ストップしたままになっておりました。つい先日、その事を親しい友人から指摘され、自分ながらまさかのびっくりをしているところです。
 どうして6ヶ月間も止まったままになっていたのか、その理由を自問自答しているのですが、確かな答えは見つかってはおりません。あえての言い訳を探して見ると、全ては“年齢のせい”(只今83歳、まもなく84歳)、という事かも知れません。
 近年足腰の不具合がなかなか思うようになっておりません。人間足腰が思うようにならなくなると、身体の全てに影響して、考える事も、文章を書く事も全て“おっくう”になっていくような気がしてきております。この辺でしっかりとこの“おっくう”の打ち止めをしておかないと、いっぺんに本物の老人になってしまうのかも知れないと気付かされ、深い猛省の日々を送っているところです。

    〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 2020年の今年は、大きくは東京オリンピックの年でもあり、個人的には下から2番めの可愛い盛りの孫が、幼稚園を卒業して、桜の咲く頃にはめでたく小学一年生になると思っていたのに、突然来襲したコロナ騒動で、オリンピックは中止、一年生の入学式は5月の末まで延期となり、しかも入学式には両親以外は出席禁止となり、孫の晴れ姿を見られず、本当に寂しい2020 年のスタートとなりました。
 更には20 年間、私の健康づくりの原点となっていた“気功・太極拳教室”も全ての教室が閉鎖を余儀なくされる状況下におかれ、本当に苦しいコロナの数ヶ月でありました。

    〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 コロナ騒動に何とか目途がつき、いよいよ6月から人生の再出発をしようと思っていた矢先、今度は突然に住所を移転しなければならないハプニングに見舞われ(これはむしろ嬉しさの方が大きいのですが)、私達老夫婦は、老体にムチを打ちながら大騒動の日々を過ごしている真っ最中であります。
 私は今『人生に起こる良き事は己の計らいの外にある』、というブッダの言葉を思い出しているところですが、84歳の住所移転がその言葉の様に、神仏に導かれたより良き人生への成り行きになる事を念じて頑張っております。

 * 私のコラムの再開は8月からになるのではないかと予想しております。よろしくお 願いいたします。

                          2020年6月22日の記



奥田のコラム(NO293)結婚50周年記念のサプライズ ( 2019/12/07 )

 
 ピザハウスにて全員集合

 
 家族写真(全員集合)

 
 全員の孫たちに囲まれた嬉しい写真

 
 結婚50周年記念写真

 
 孫たちとのボーリング大会

 
 アメリカファミリーと有香さんファミリー達との楽しいゴルフ(アロハ・ゴルフ場にて)

 第35回ナハマラソンのあった日の丁度1ヶ月前に当たる11月1日は、私達夫婦にとっては結婚記念日で、しかも今年は結婚50周年に当たる“金婚式”であったとの事です。
長女の有香さんが家内と一緒に先頭に立って、何かと結婚50周年のお祝いを計画してくれていたようですが、私はどうしても結婚50周年という時の流れが実感できなくて、金婚式のお祝い事はまだしばらく先にしても良いのでは・・・という気がしておりました。

 そんな折、2019年10月31日の早朝、つまり私達の結婚50周年の1日前、沖縄を揺るがす大事件が勃発したのです。それは沖縄のあの首里城の突然の炎上・消滅です。これには本当に驚きました。真っ赤に炎上する首里城の姿をTVで見ながら、私はまるで夢の中を彷徨っているような錯覚に陥っておりました。

 コラムNO291にも書きましたが、私達家族は首里金城町に20年程住んでおりましたので、首里城には沢山の思い出が在るのです。その首里城が突然消滅したのですから、例え結婚50周年であれ、何であれそんな状況下でのお祝い事など出来るはずもなく、その日に私がした事は、一本のバラの花を買ってきて家内に渡しただけのような気がしておりますが、もしかしてこれも私の夢の中の妄想でしか無ないのかも知れません。首里城炎上の日から私の頭はすっかりおかしくなっているようですから・・・。

 この日から3週間程の時が流れ、今から思えば、もしかして私達夫婦にとってはもうこれ以上の幸せは無いかも知れないとおもえる程の嬉しい出来事が現実となって訪れてくれたのです。
それは2019年11月23日(土)の事でした。この日に私達の50周年のお祝いをする事になっていたようで、アメリカ、新潟、石垣島、那覇市に住んでいる4人の子供達とその家族・総勢17名が、この日のために沖縄に集合してくれたのですから、私達夫婦にとって、これ以上の喜びがあろう筈はありません。

 この日は家族全員が“お昼の11:30にピザ・ハウス本店のレストランに集合”との号令がかかりました。その場に行ってみると、2階の特別の部屋に特別の食事が用意されておりました。子供たちが私達の結婚50周年のお祝いにピザ・ハウスのレストランを選んでくれたのは、子供達が皆、小さい時からピザ・ハウスが大好きであったからかも知れません。私達夫婦もピザ・ハウスには沢山の思い出があって、この日はピザ・ハウスの現会長が特別のおもてなしをして下さり、生涯の思い出に残る素晴らしい食事会となりました。

 食事が終わった後は記念撮影との事で、那覇市小禄にあるスタジオに全員が移動し、ここでは全員の記念写真と、孫たちに囲まれた写真と、私達夫婦の記念写真を撮っていただきました。そしてその日の夜は、長女の有香さんの計らいで“大カラオケ大会”が催され、部屋が壊れんばかりの歌声が部屋中に響き渡りました。この会場には私の妹の三枝夫婦とその息子秀平君と、私達の4人の子供達が小さい頃に大変お世話になった玉寄美代子さんも同席して下さいました。
 
 最後に私達の結婚50周年にはるばる遠くから集合してくれた家族全員の名前を記してお礼の気持に変えたいと思います。

 @ はるばるアメリカから来てくれた末息子の奥田淳平・Angje夫婦と孫のAnikaとMarika    

 A 忙しい中、寸暇を割いて新潟から駆けつけてくれた次男の奥田城司・奈津子さん夫婦と孫の尊君と悠人君。
B 石垣島からこちらも多忙の中、駆けつけてくれた長男の奥田成彦・恵さん夫婦と孫の拓夢君。

C 那覇市在住の長女、當銘有香・昭如夫婦と孫の希望と音羽ちゃん。
  (この度の祝賀会に先頭に立ってお世話をしてくれた當銘有香さんには、特別のお礼を申し上げます)

 50年前にスタートした私達夫婦が、50年を経た今、17人のファミリーに拡がっている事と、彼・彼女達の成長と行く末を見守ってくれているであろう私達の今は亡き父母に、万感の思いで感謝の気持ちを捧げます。そしてこれからの私達夫婦は、首里城復興の夢を念頭に置きながら、残された人生を少しでも世の中のお役に立てるよう頑張り続けたいと念じております。
感謝です。感動です。有難うございます。


                 2019年12月7日の記


奥田のコラム(NO292)ナハマラソンの思い出 ( 2019/12/05 )

 
 ナハマラソン第35回大会(2019年12月1日)スタート風景

 
 ナハマラソン第7回大会・夫婦でめでたく完走

 
 1989年4月23日・ロンドンマラソン完走(4:43.24秒)53歳

 
 1991年9月29日・ベルリンマラソン完走(4:13.49秒)56歳

 
 日本縦断「桜駅伝」3000キロ走・1996年3月〜5月・東京千鳥ヶ淵公園にて

 
 アトランラオリンピック聖火ランナー日本代表・ネバダ州ラスベガス街道にて

 2019年12月1日、今年もまた“太陽と海とジョガーの祭典”、ナハマラソンが盛大に挙行されました。当日の気温26度という快晴の中、出場者数は男子17.470人、女子5.300人の合計22.770人で、完走率は64.18%でした。

 ナハマラソンがスタートしたのは今から35年前の1985年の事です。その当時、ハワイから沖縄に赴任された在る旅行社の支店長から、“沖縄にもハワイのホノルルマラソンの様なマラソンを実現させたいので、是非協力して欲しい“との言葉をかけられ、その当時の私は観光の仕事に関わっていた事もあって、マラソンの事は何一つ解らないながらも、“とにかく出来ることは何でもお手伝いします”、と答えた結果が、ナハマラソン第1回大会のスタートラインに立たねばならない羽目になってしまったのです。

 ナハマラソン第1回のスタート地点は、那覇市久米にある福州園前の道路でありました。その時の出場者は2.500人あまりであったと記憶していますが、35年の時を経た今ではなんと10倍近い、日本でも有数の大マラソン大会になっているのですから、感慨もひとしおであります。

 さて、人生初マラソンのスタートラインについた私の出で立ちは、今から思うと本当に恥ずかしいのですが、日頃使用していた短パンでありました。10〜15キロぐらい迄は何とか走れたのですが、15キロを過ぎた頃からは体力の限界に加えて、短パンの裾の摩擦で、太ももから血が滲むようになり、もうどうにもならない苦痛に耐えきれず、とうとう20キロ目前の地点で沈没(リタイヤー)の止むなきに至ってしまいました。初マラソン苦渋の体験でした。

 その時以来、マラソンとは完全なる決別をした筈なのに、それから3年が経った第4回のナハマラソンに私はまた参加していたのです。その理由は、ナハマラソンに失敗した翌々年のあるホテルの忘年会パーティーで、突然一人の人物から声をかけられたのです。その人物とは、当時オリオンビールの副社長で、沖縄地球を走る会会長をされていた比嘉良雄さんでした。パーティーで私の顔を見るなり、“そうだ奥田さん、来年のロンドン・マラソンを一緒に走りましょう!”でありました。突然のまさかの誘いに私はびっくりしたのですが、“ロンドンマラソン”という夢の様な一言に目がくらむ程の魅力を感じ、過去の辛い出来事などすっかり忘れて、その場で参加の約束をしてしまったのでした。
        
 約束をしたその日から、私は朝に昼に夕に、夜中までも月星の明かりを友として“ロンドンの夢”に没入する日々を積み重ねておりました。1988年のナハマラソンを5:02分で完走し、1989年4月23日のロンドンマラソンも4:43:24秒で完走いたしました。共に52歳の時の私の人生の快挙であったと思っております。

 ロンドンマラソンでは目の不自由な人も足の不自由な人も、大勢の仲間達に囲まれながら嬉々として走っておりました。バケツのような入れ物を待って募金を集める人たちも沢山目につきました。私はロンドンマラソンで実に沢山の人生の学びを頂きました。ロンドンマラソンの感動を機に、その後の20年余りの人生はマラソンに育てられた人生でもあったような気がいたしております。
 
 ナハマラソン11回連続完走、海外マラソンはロンドン、ベルリン、メルボルン、ボストン等と6ケ所を走らせていただきました。それぞれのマラソンにそれぞれの人生の感動がありました。
 1996年には「地球を走る会」の人達と一緒に、沖縄最南端の波照間島から北海道宗谷岬まで、桜の開花に沿っての日本縦断3.000キロ駅伝を3ヶ月かけて走らせていただきました。この年はボストンマラソンにも出場を許され、更に加えてこの年に開催されたアトランタ・オリンピックの聖火ランナー日本代表の一人にも選出される、まさかの好運にも恵まれました。

 75歳の誕生日に、総走距離50.000キロ走達成を機に、ジョギングからウオーキングに変更しましたが、数々の思い出が蘇る感謝のマラソン人生でありました。それらは全てナハマラソンのお陰であったという気がしております。

 今年のナハマラソンには甥っ子、姪っ子など7人が参加してくれましたが、来年は優に10人は越えるのではないかという気がしております。ナハマラソンに心からの感謝を捧げ、ナハマラソンの限りない発展を祈るばかりです。


                2019年12月5日の記

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