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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO95) 帯津先生と行く内モンゴルの旅(その1) ( 2010/09/11 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 帯津先生が2年に一度訪れておられるモンゴルの旅に、今年は我が沖縄養生塾から4人の塾生が参加してくださいました(8月上旬)。それぞれに深い感銘を受けられたようですので、今回と次回のコラムには、4人の方々の貴重な旅の感想文を載せていただく事に致しました。

(T)虚空との出会いー内モンゴルへの旅                沖縄養生塾生  玉城 康雄

 自然は二つに大別できる、という。目に見える自然と目に見えない自然。目に見える自然の奥に測り知れない力を持つ、目にする事の出来ない大いなる自然が潜んでいるのではないか。
 今回の「帯津先生と行く中国内モンゴルの旅」では、その事を深くかみ締める機会になりました。
見晴るかす大草原の果てに天と地、自然の織り成す存在の深みを実感した。特に、ホロンバイル大草原は、帯津先生が多くの著書の中で語る<いのちの故郷・虚空>を体感させる場だと思いました。

 よく「旅が楽しいのは、帰る家があるからだ」と言います。虚空という魂の故郷に大草原で出会い、いつか来る<いのちの旅立ちの日>が気負うことなく静かに迎えられそうです。古稀も過ぎ、初めて、かかる人智の及ばない崇高なる場にたたずむ事が出来、こころ踊る想いでした。1986年以来、2年ごとに内モンゴルを訪れている帯津先生の一途な思いが解かりかけて来ました。
 今回の旅は、自己との対話、虚空との対話へと繋がるものでした。このような得がたい旅にお誘いいただいた事に深く感謝いたします。有難うございました。

(U)ホロンバイル草原の河笑まう    
  沖縄養生塾生   玉城 秀子

 地図上はすぐそこながら、北京経由、まる二日掛りで到着した遥かな地・内モンゴル。「帯津先生と行く中国内モンゴルの旅」は、全国各地から総勢44名が参加、天下の養生塾に相応しく熱気に満ちた旅団となった。
 モンゴル到着後の旅は、草原歓迎式とモンゴル料理のおもてなしで始まり、遊牧民との交流。凍えつつも楽しんだゲルでの宿泊。森林公園での野の花たちとの出会い。胡琴や鼓など民族楽器を駆使した歌舞への招待など盛りだくさんであった。帰途登頂した万里の長城では権力の底知れなさを思い知らされた。振り返って見れば、どれも「一期一会」を言葉ではなく、魂で実感した豊かな出会いでした。

 その中で特に印象に残っているもの。それは内モンゴルで最も美しいと言われているホロンバイル大草原の小高い景点から眺めたモルゲル河の佇まいであった。
 河は天と地に抱かれ、草原限りない中をくねりくねり、行きつ戻りつ静かに笑まっていた。草原と共に生きている河。草原の生きとし生けるものを生かし背負っている河。しかし、河にはその気負いがない。悠久の時空の中でゆったりと、ただ在る河。それは「行く川の流れは絶えずして・・・」
に見る、流れ移り行く日本の川とは異なる。モンゴルの大自然と民族の営みにふさわしい、全てを受け止め癒していく母なる河の姿であった。観るものをも清謐にさせる気品がこの河にはあった。

 「欲少なく生きているモンゴルの民の存在そのものが詩である」と司馬遼太郎は語っているが、私はモルゲル河そのものがまさに詩だと感じた。
 緑の風を受けながら河と相対した小一時間。河は何も言わない。ただ微笑んでそこに在るだけだった。しかし、私の内の捉えようのない何かが静かに動き出していく時間となった。モンゴルから戻って早一月。河は今も私の中で笑まい、私を少しずつ変えている。

写真は内モンゴル・ホロンバイル大草原の風景
撮影:伊禮 洋代さん


奧田のコラム(NO94) 沖縄興南・春夏制覇の偉業 ( 2010/08/26 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2010年8月21日は、第92回夏の甲子園で沖縄興南が東海大相模に13−1と快勝し、しかも春夏連覇という史上6番目の偉業を成し遂げ、沖縄中が歓喜と感動に包まれた記念すべき一日となりました。
 沖縄在住38年になる私も、今回ばかりは家のテレビでは物足らず、準決勝、決勝戦は家内共々、新装成ったNHK沖縄放送局に足を運び、大画面のテレビを通して大勢の人達に混じって応援の限りを尽くしたのでした。こんなにも素晴らしい感動の中に身を置く事ができたのは誠に好運でした。

 決勝戦が終わるや否や、街角では大量の「号外」が配られていました。後で知ったのですが、沖縄の二大新聞、「琉球新報」と「沖縄タイムス」はそれぞれに5万部の号外を配布したとの事ですから、もしかしてこれは沖縄では空前の出来事かも知れません。
 好運にも、私も各社の「号外」を一部ずつ手に入れる事が出来ましたが、それぞれの「号外」には今大会の全貌が見事に、感動的に語り尽くされておりますので、ここに紹介して、末永く私の思い出の中にも留めておきたいと思うのです。
 
 (T)琉球新報の号外記事(2010・8・21)

 第92回全国高校野球選手権大会最終日は21日、阪神甲子園球場で決勝戦を行い、興南は東海大相模(神奈川)を13−1で破り、沖縄県勢初の甲子園優勝を果たした。
 春の選抜大会を制した興南は、1998年に松坂大輔(現・レッドソックス)を擁した横浜(神奈川)以来、史上6校目となる春夏連覇の偉業をも達成。深紅の大優勝旗が海を越えて初めて沖縄に渡る。

 興南先発の島袋洋奨は、初回から毎回のように得点圏まで進められたが、スライダーなど変化球を主体に的を絞らせず、ピンチをしのいだ。
 興南打線は四回、東海大相模の好投手・一二三慎太を捉える。一死一塁から6番山川大輔の中前打を皮切りに、慶田城開、真栄平大輝がそれぞれ三塁打を放つなど7安打の固め打ち。打者11人の猛攻で大量7点を奪った。五回にも1点。六回には3番我如古盛次の3点本塁打など5点を追加してリードを広げた。
 沖縄県勢は1958年の第40回大会に首里高校が初出場して以来、52年目、43度目の挑戦で夏の頂点に立った。

 (U)沖縄タイムスの興南賛歌W感動をありがとうW(2010・8・22)

沖縄に初の優勝旗が渡る。 青い海を越えて渡るのは深紅の大優勝旗。
さらには「春夏連覇」という夢に見た偉業を成し遂げた。

高校球児が夢を見て、あと一歩で2度涙を呑んだ。
1958年から挑戦し続け厚い壁にはばまれた。
「一勝」なんて夢だと言った。 「優勝」を夢だと言った。
「連勝」を夢だと言った。 でも沖縄の興南が夢を現実にした。
やれば出来る。 この勝利は、県民に「勇気」と「希望」を与えてくれた。
この「感動」を糧として、県民の一人一人が、自分の夢をかなえる。
「勇気」と「希望」は、未来へ繋がる。

 (V)私の感謝状Wおめでとう、ありがとう興南ナインW

興南ナインの皆さんおめでとう!!そして感動を有難う!!
我喜屋優名監督の下に全力を尽くした皆さんの勇姿は
まさに日本一と呼ばれるのにふさわしい見事なものでした。
君達は沖縄の誇りです。君達は沖縄の自慢の息子達です。

一休みして、これからはまたそれぞれの人生の道を拓いて
美しく逞しいW人生という花Wを咲かせてください。
君達に不可能という字はないはずですから・・・。
本当におめでとう!!本当に有難う!!心から感謝をこめて・・・。
(2010・8・26の記)
写真上:興南高校優勝の号外(琉球新報より)
写真中:優勝の瞬間を喜ぶ興南ナイン(沖縄タイムスより)
写真下:NHK沖縄放送局での応援風景


奧田のコラム(NO93) 我が家の庭のパパイア物語 ( 2010/08/15 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 沖縄の夏の果物と言えば、近年ハウス栽培が確立してからは、圧倒的にマンゴーがその主役の座に大躍進している感があります。お中元にマンゴーをお届けした友人、知人から返ってくるお礼の言葉は、私の予想をはるかに越えるものがありますので、沖縄のマンゴーはよほど美味しくて、ヤマトンチュー(本土の人達)の心をとりこにしているに違いありません。 
沖縄に住む者として、沖縄のマンゴーが沖縄の夏を彩る味覚の王者になってくれる事は誠に嬉しい限りです。

 さて次は沖縄のパパイアについてです。
私は最近とても嬉しい発見をしているのです。それはつい一年程前からの事ですが、我が家の小さな庭に、突然一本のパパイアが芽を出し、あっという間に1〜2メートルの大きさに成長し、白い花を咲かせ、小さな実をつけ始めたのです。パパイアの実は日に日に大きくなり、次々と色づき、遂には片方の手のひらでは掴みきれない程の大きさに成長してくれたのですから、何だか私には夢の中の出来事のように思えておりました。どうやらこのパパイアは一羽の小鳥が運んでくれた好運の種によるものかも知れません。

 さてさて、我が家の小さな庭にどっかりと根を下ろしたパパイアの木は、二年目に入ってからは、まるでパパイアの王様のような風貌に成長し、今では採っても採っても間に合わないぐらいに見事な実を増やし続けているのです。
 黄色く熟れると、真っ先にやって来て、ちょうどの食べ頃を教えてくれるのは小鳥たちです。
スズメ、メジロ、ヒヨ、シジュウガラなど実に様々な小鳥たちが早朝からやって来るのです。
初めのうちは「小鳥たちに食べられてなるものか」!!と競争心を燃やしていたのですが、考えてみればこれは小鳥のお陰かもしれないのです。今は小鳥たちと仲良く分け合っているのですが、それでも私達夫婦だけの生活ではどうにも処理できない収穫量です。とうとう家内は熟したパパイアをジャムにして保存する事を思いつき、お陰で我が家の冷凍庫はパパイアジャムで埋め尽くされ、嬉しい悲鳴を上げているのです。ご希望の方がおられるのであれば、家内はきっと喜んでお配りするに違いないと私は思っています。

 沖縄のパパイアは果実の青いうちに野菜として食べるのを常としていて、あまり果物としての評価はされていない節があるのです。私も永い間沖縄に住んで、そういうものとばかり思っていたのですが、我が家の庭に実をつけてくれたパパイアの美味しさには充分に満足しているのです。パパイアのみならず、良く気をつけて見れば、沖縄ではバナナも、グアバもパッションフルーツも、アセローラも、シークアサーも、いろいろな果物がすぐ手の届く各家庭の庭にわんさと実をつけているのですから、今更ながら沖縄に住む喜びに胸をときめかせている昨今の私です。

 ところで私は、パパイアには特別の思い出があるのです。
沖縄ではパパイアは、健康野菜の王様として昔から特別の評価がなされております。
今から20年ほど前、当時パパイアおじさんと呼ばれていた人から「パパイアこそは実も種も皮も樹液もみんな素晴らしい健康食品のかたまりだから、是非とも研究してみるといいですよ・・」と教えられ、素人ながら奮起して「パパイアエ
キス」なるものを製造した事があるのです。パパイア商品を販売するにあたっては「薬事法」なる難しい問題があってW公Wにするまでには至りませんでしたが、未だにまだ少しは未練が残っているのです。

 残念ながらパパイアおじさんはすでに故人となっておられるのですが、我が家の庭に育ったパパイアの威力を見るにつけ驚嘆するものがあるのです。この度のパパイアとのご縁がそんな私に、もう一度パパイアを見直してみたら・・・・と呼びかけてくれているように思えてなりません。私流のやり方で、パパイアの実も種も皮もまるごと粉末にするなり、樹液による酵素飲料なりを試作して、私の身体で実験してみようと思うに至っております。
 そのうち成果をご報告出来ればと思っています。乞うご期待であります。
(2010・8・15の記)

写真上:ご近所の平田様からいただいた我が家のパパイアの写真
写真中:パパイアの木から収穫された美味しいパパイア
写真下:半分に切ったパパイアの中は真っ黒い種がぎっしり詰まっています


奧田のコラム(NO92)W耳ぐすいWと「あやかりの杜」気功教室 ( 2010/07/28 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 7月の沖縄は、まさに真夏の中の真夏です。私の頭の中に浮かぶ沖縄の真夏の風物詩といえば、海遊びと高校野球とエイサー踊りと最近はマンゴーの味覚というところですが、今年の夏はそれらに加えてもう一つ、強烈な印象が私の脳裏に焼きつく事となりました。それは蝉の声とW耳ぐすいWと言う思いがけない方言とのマッチングに気付かされた事であります。

 私の気功教室の一つに、もう8年近くも続いている教室があって、その教室は今は大きな樹木に囲まれた空間の中でやっているのです。その教室とは沖縄県北中城村にあるWあやかりの杜W気功教室の事です。現在17名のメンバーがいて、この人達は毎週一回この空間に身を置いて、それぞれに大自然、大宇宙とのいのちの交流を楽しんでおられます。この空間には太古の自然が息づいていて、四季折々の変化には目を見張るばかりの気付きをさせてもらえます。

 夏になると、このWあやかりの杜Wの朝は、全てのものが強烈な蝉の声の中に包み込まれてしまうのです。私達の気功教室(9:30〜11:00)もその例外ではありません。以前の私はこのすざましい蝉の声に悲鳴を上げていましたが、近年の私はすっかり変身していて、蝉の声が待ち遠しく思われてならないのです。
 蝉の命は一週間と聞きました。蝉の声はこの一週間の命を全力で生きる為の叫び声である事を知りました。そう思えば蝉の声に無限のいとおしさを覚えずにはいられません。

 そういえば10年程前にも、アメリカのオハイオ州に住んでいる末息子を訪ねた時、たまたまの事ですが、なんと14年に一度しか地上に姿を現わさないという小さな蝉の大群に出会った事があります。私はゴルフを楽しんでいたのですが、私のボールにとまってくれた一匹の蝉の姿がいとおしくて、この蝉がボールから飛び立ってくれるまで、ボールを打つのを待ち続けた時の情景が思い出されます。

 考えてみれば、一週間の命の沖縄の蝉も、14年に一度のアメリカの蝉も、100年を生きられるかも知れない人間の命も、宇宙の中にあっては、ほんのまばたきのようなものかも知れません。
しかしながらどんな姿であれ、この地球上に生を受けたことに変わりはないのです。それぞれの運命をどう生きたかについては、天なる神様が見て判断されるのでしょう。与えられた命を蝉のように全身全霊で生きるのには、人間の命はちょっと長すぎるかも知れませんが、納得の人生を生きる事こそはとても大切な人生の答えであると私は思っているのです。

 さて今回のコラムで伝えたい一番のポイントは、実は次なる出来事なのです。17人のメンバーの中で、私が一番元気の心配をしていた女性のKさんから「この蝉の鳴き声は私のW耳ぐすいWです」という言葉が飛び出したのです。W耳ぐすいWとは沖縄の方言で耳から入って来る薬、つまり命のエネルギーという意味のようです。私はこの言葉が彼女の口から出た事にびっくりしたのですが、暫らくしてから、この驚きは大きな喜びに変わったのでした。彼女の元気は本物になった!!と言う確信が得られたからです。彼女の健康度はどうやら素晴らしく数値の高いところに昇っていて、すでに気功的人間に大変身されておられるのかも知れません。

 一週間の命を生きる蝉の声は、まさに生命の躍動以外の何物でもないのでしょう。Wあやかりの杜Wの仲間たちは、蝉の声は勿論のこと、虫の声、小鳥の声、草花や小川のせせらぎにも耳を傾けられる素晴らしい感性の人達の集まりです。これらの人達と一緒に、一週間に一度、このWあやかりの杜Wに身を置く事の出来る幸せに感謝を覚えるのです。

 沖縄の方言には今回のW耳ぐすいWの他にもW命(ぬち)ぐすいW(口からいただく命のエネルギー)、W目くわっちーW(目からいただく命のエネルギー)、それにW命(ぬち)どう宝W(命こそ最高の宝物)という世界に誇るべき素晴らしい言葉もあるのです。沖縄は「平和」と「自然」と「命」を宝物と考える「守礼の邦」(礼節を尊ぶ邦)であります。この沖縄がいつの日か、必ずや世界の中の宝の島になるに違いないと、私は秘かにそう思っているのです。
(2010・7・28の記)

*7月28日は娘の「有香」の誕生日です。この日にこのコラムが書けた事を私は嬉しく思っています。(WE LOVE YUKA!!)

写真上:山原の自然の中で気功を楽しむWあやかりの杜Wの    メンバー
写真中:山原の滝の前で
写真下:あやかりの杜気功風景


奧田のコラム(NO91) 七夕さまと[天職]に気付かされた日 ( 2010/07/17 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 7月7日は七夕さまの日でした。七夕さまと言えば、子供の頃からたくさんの願い事を短冊に書いて、笹の葉につるした思い出があるのですが、近年の私の七夕さまは、19年前の七夕さまの日に、天空に旅立った母親の事が思い出される日となっております。
 我が家では、と言っても今は家内と二人きりだけですが、母の写真がいつもすぐ手の届くところにあって、事ある毎に声をかけておりますので、七夕の日に特別の行事をする事もなく、母の好物であったWおはぎWと一輪の草花を写真の前に供える程度です。今年は家内が初物のマンゴーを供えてくれておりましたが、翌日にはこのマンゴーはすっかり私の胃袋の中におさまってしまい、母にはちょっと申し訳ない気がしております。

 さて、今年の七夕さまは、私にとっては忘れられない特別な一日になったような気がしておりますので、忘れない為にも今日のコラムに書き残しておこうと思います。
2010年7月7日の早朝、まだ夜が明けきらない頃に、私はもうろうとした意識の中で目をさましておりました。もうろうとした意識の中を思い出してみると、

 @つ目は、(NO90のコラムにも書きましたが)敬愛してやまない恩師の帯津良一先生からW定年後に「天職」に輝いている人Wとして紹介された、その天職についてずっと考えていた事。
 Aつ目は、この日から新しい気功教室(指導者養成コース)がスタートする事になっていて、その事についていろいろと考えをめぐらせていた事。
 Bつ目は、実はこの事が不思議でならないのですが、普段はめったな事では夢にも出てこない母親が、何故かこの日に限って、W今日からまた頑張りなさいよWと、しきりに声をかけてくれていたように思えてならないのです。

 私は眠い目をこすりながら、しばし茫然とベッドに座っていたのですが、今度はそのベッドの上で、ふと思い出した事がありました。それは1〜2ヶ月ほど前のことと思われるのですが、しっかり者の妹から、「スミちゃんが何か始めようとする時は不思議と七夕さん(母の命日)の日が多いよね」と言われた事を思い出していたのです(スミちゃんとは私の事です)。
 そう言われてみれば、以前、私が心血を注いで或るホテルの中に「特選館」というお店をオープンさせたのも1987年の七夕さまの日でした。
 そしてもう一つは、家内の突然の入院がきっかけでW気功の世界Wにご縁をいただく事となり、親しい仲間たちと一緒に、或る公園の片隅で気功道場のようなものをスタートさせ、10年の永きに亘って続けられたのも1996年の七夕さまの日からでした。そして今年の七夕さまです。どうやら私の人生は、7月7日の七夕さまの日に何かしらの深いご縁を戴いているのかも知れません。

 2010年7月7日の朝、そんな事があっての事か、私は心の中で一大決心をしておりました。その決心とは、この日から新しく始まる気功教室を機に、我が気功的人生を「天職」と心得て取り組む事にしよう!!と決心をしたのです。思えば、これまでの紆余曲折の人生は、全てこの日からのための出来事であったと思えば、何もかもが実にすっきりとした気分になれるのです。
 「天職」とは一体何であろうかと辞書を引いてみたら、「生まれながらに備わっている職務」と書かれてありました。私が気功人生と出会ったのは今から14年前の1996年、60歳の時ですから、とても生まれながらに備わった職務とは思われません。そこで一生懸命に考えた末に、私は次の三つの事を自分の天職の条件に掲げようと思いました。

 @天に恥じない事(人生)。それは天と響き合い、天の摂理に学ぶこと。
 A己に恥じない事(人生)。それは誠実にして、うそのない自分である事。
 B父母が喜んでくれる事(人生)。それは仲良く楽しく、人様のお役に立てること。

 以上の三点に共通するものは、仏教の世界で言うところのW他利に生きるWと言うことになるのかも知れません。私の母親の生き方は、今から思えば、まさに誠実そのものでありました。母の口癖の一つは、W情けは人のためならずWでしたが、人様のお役に立てば、その喜びは自分に返ってくるという事でしょう。私のこれからの人生が、「天職」と心得た気功的人生を通して、少しでも人様のお役に立てる事になれば、誰よりも父母が一番喜んでくれるに違いありません。今年の七夕さまの早朝に聞こえてきた母の声は、きっとそういうことであったと私は思っているのです。
 2010年の七夕さまの日からスタートした新しい気功教室は、「天職」に生きられる喜びに満ち溢れているのです。「天職」に気付かせてくださった帯津先生、今年の七夕さま、そして私の自慢のばあちゃん(母)、まことにまことに有難うございました。    (2010・7・17の記)              

写真上:私に「天職」を気付かせて下さった帯津先生
写真中:私の「天職}を応援してくれているらしい        母親の故奧田マリアまさえさん
写真下:7月から始まった指導者養成クラスの風景


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