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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO289) 『平成』から『令和』の時代へ ( 2019/05/05 )

 
 平成天皇最後のお言葉

 
 平成天皇皇后両陛下

 
 新天皇皇后両陛下

 
 新天皇初めてのお言葉

 
 一般参賀の方々の祝福を受ける皇族方

 
 一般参賀の方々に手を振る両陛下

  2019年4月30日に、前天皇陛下が退位され、翌日5月1日には前皇太子殿下が新天皇陛下に即位され、我が国の元号は「平成」から「令和」に変わりました。
 折しも日本は10連続の祭日真っ只中にあって、日本中の人達はそれぞれの地で、それぞれの元号の思い出を心に刻んだに違いありません。
 私は年齢(82歳)のせいもあってか、この連休はずっと家の中で静かに過ごしていたく、元号の推移の様子をTVをとうしてしっかりと拝見させていただきました。元号推移の祭典には理解しがたい行事も多々ありましたが、なんといってもこの日のハイライトは、旧・新天皇陛下の最後の、そして初めてのお言葉であったと思います。それぞれのお言葉に感銘を受けましたので、今日のコラムにはそのお言葉を明記して、私の心の中にも刻んでおきたいと思います。

    (1)前天皇陛下(現上皇)の最後のお言葉

 「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛を持って行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」。
 
    (2)新天皇陛下(元皇太子)の初めてのお言葉

 「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば、上皇陛下にはご即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」。

  (3)新天皇陛下の即位を祝う一般参賀でのお言葉

 「このたび、剣璽等継承の儀および即位後朝見の儀を終えて、今日このように皆さんからお祝いいただくことを、うれしく思い、深く感謝いたします。ここに、皆さんの健康と幸せを祈るとともに、わが国が諸外国と手を携えて世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げることを、心から願っております」。

         2019年(令和元年)5月4日の記


奥田のコラム(NO288) 新元号『令和』について思った事 ( 2019/04/04 )

 
 新元号『令和』沖縄タイムス社

 
 新元号『令和』の主旨を説明する安倍首相

 
 新元号『令和』に喜ぶ人達

 
 新元号『令和』に戸惑いを見せる人達

 
 銀座「和光」の前に飾られた新元号『令和』の書

 
 新元号『令和』の書を書いた石飛先生

 2019年4月1日、我が国の新元号が『令和』と決まり、世界中に発信されました。新元号は、日本人であれば総ての人が否応なしに関わらないではいられない出来事ですから、日本中の人がかたずをのんでその瞬間を待っていたに違いありません。

 私は都合があって、その瞬間を家内が運転する車の中で聴く事となりましたが、実は官房長官の第一声が何を言っているのか、何を伝えようとしているのか全く解らず、自分の耳と自分の理解能力を疑わないではいられない瞬間でもありました。隣に座っていた家内に訊ねてみたら、家内もはっきり聞き取れないとの返事が返ってきたので、いく分胸をなでおろした次第です。

 早々家に帰り、テレビで新元号の活字が『令和』である事を確認したのですが、『令和』の活字を見た瞬間の印象は“令”の字が命令以外の意味が頭に浮かばず、、浮かんできた強烈な印象は、安倍日本政府の“命令による日本の平和づくり”だけでした。

 その後の新聞・テレビで新元号『令和』の出典が、日本最古の万葉集の中の一節である事を知り、安堵の胸をなでおろしたのでした。万葉集のその言葉は、

『初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす』
 現代語訳:新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉      の如く白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

 との事で、1200年前のいにしえの人達の自然の美しさを愛でる心の豊かさに触れ、深い感慨を覚えるに至りました。

  今日(4月3日)の新聞によれば、新元号『令和』に好感を持つ人は、約70%との事ですが、私の住む沖縄では『令和』の持つ響きに、相当の違和感を持つ人が大多数の感があるのです。
 理由は申すまでもなく、新元号の『令和』に、司令、命令、号令等々の言葉を連想させないではいられない響きがあるからです。

  日本全体の70%の米軍基地の駐留を余儀なくされている沖縄は、今また安倍首相、菅官房長官の“沖縄の民意に寄り添いながら”の言葉とは真逆に、沖縄の美しい宝の海を平然と破壊し続けている現状があるのですから、この二人の口から発せられる言葉には、信頼の根拠は何一つ無いのです。私の親しい友人達は、新元号の『令和』の“令”を、沖縄「守礼の門」の“礼”に置き換えて理解しようとしているのです。願わくば『令和』の時代が命令ではなく、
“礼節”を重んじる“礼和”の時代になって欲しいと心から念ずる次第です。

  〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜

追伸:4月1日、新元号『令和』のニュースがTVに溢れていた最中、私の20年来の最も大好きで、最も敬愛してやまない著名な書家の石飛博光先生が、事もあろうに東京銀座四丁目にある、あの有名な“和光”の前で、新元号の『令和』の書を披露している姿がTVに映し出され、本当に驚きました。たまたまその瞬間を家内が録画してくれておりましたので、写真に撮す事が出来ましたが、私には偶然を通り越した奇跡としか思えない瞬間の出来事でした。この瞬間のご縁を大切にして、私は新元号の『令和』に出来るだけの親しさを持って接し、残された人生を有意義に過ごして行きたいと願っております。
                  2019年4月3日の記


奥田のコラム(NO287) 2019年の幕開け3題と希望の年!! ( 2019/01/31 )

 
 優勝トロフィーを持つ大坂なおみさん

 
 力強いストローク(琉球新報より)

 
 優勝の瞬間

 
 嵐の休活会見(琉球新報より)

 
 賜杯を受け取る優勝力士”玉鷲”

 
 仲吉さんの今年の年賀状

 2019年のお正月は平成最後のお正月という事もあって、何か、ちょっとぐらいは気の利いたコラムを書いておきたいと思っていたのに、一向に筆が進まず、とうとう今日は1月最後の日になってしまいました。そんな事もあって、今日のコラムはこの1月で最も印象に残った2〜3の事を記してみようと思いペンをとりました。

(印象事その1)
 2019年1月の最大の話題はなんと言っても、テニスの大坂なおみさんの全豪女子オープン日本人初優勝と、更には女子世界ランキング第1位獲得のビッグニュースではないでしょうか。
1月26日にTV放映された決勝戦の瞬間視聴率は、何と38.5%との事ですから、これは日本人のやがて半分に近い人があの勝利の瞬間に、酔いしれて興奮したのですから、、只只凄い!!の言葉以外に思い当たる言葉が私には見つかりません。幸運にも私もあの勝利の瞬間を見るチャンスに恵まれ、体が震える程の喜びを体験させていただきました。

 大坂なおみさんはまだ21歳、世界の女子選手トップ10は、殆ど30歳前後のようですから、これからの10年ぐらいは、大坂なおみの時代が続くのではないかと予想されます。
大坂なおみさんおめでとう!!そして感動をありがとう!!

(印象事その2)
 1月27日は音楽グループの“嵐”が2020年から休活の発表があり、マスコミが大騒ぎとなりました。私はあまり若い人達の音楽グループには興味がないのですが、“嵐”にだけは何かしらの親しみが感じられ、人気絶頂期の“休活宣言”はちょっともったいないなーとは思ったのですが、よくよく考えてみると、休活宣言されたリーダーの大野君は、素晴らしい頭脳の持ち主であるとの思いに至りました。
彼ら5人のグループは、必ずや、休活した後に、より中味の濃い新生“嵐”として蘇るに違いないと私は思いました。“嵐”の2020年までの活躍と、その後の人生に幸あれと私はエールを送りたいと思います。

(印象事その3)
 私は大相撲が好きですから、先場所の“玉鷲”の優勝には感銘を受けました。玉鷲関は今年34歳、初土俵から90場所、1151連続出場の末に成し遂げた初優勝。本当に頭が下がります。彼の相撲人生には品格があると私は思っております。どうかこれからも健康、体調、怪我に気をつけられて、相撲の歴史に残る連続出場を続けてくださるよう、心から期待しております。

    〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

(*)このコラムを書いている最中(1月31日午後5時30分頃)私の携帯に突然の電話がありました。電話をして下さったのは、石垣島に住む仲吉委子さんからでした。仲吉委子さんとは、22年も前に、石垣島市制50周年記念の“とばらーま大会”の時からのご縁をいただき、年賀状の交換が続いている方です。仲吉さんからの年賀状は、まさに“天下一品”で、私は毎年、仲吉さんからいただく年賀状を何よりも楽しみにさせていただいているのです。

 仲吉委子さんからの電話は、今年からこの仲吉委子さんが、私達が行っている“養生太極拳による100歳人生を目指す会”の仲間に参加して下さるとの報告で、まさかの電話に、私は今この瞬間からも歓喜と興奮の中にいるのです。私は仲吉さんのお人柄と、年賀状をとおして感じるセンスの良さに、魅せられているのです。

 やや元気度の少なかった私の新年のスタートは、仲吉委子さんからのお電話で、瞬時にして夢と希望と歓喜にあふれる新年のスタートに一変いたしました。
 今年はもしかして、仲吉さん達と一緒に、石垣島の古典音楽“鷲の鳥節”による太極拳が舞えるかも知れないと思うと、大いなる胸のときめきを覚えずにはいられません。
 仲吉委子さんに感謝です。お陰様で2019年は素晴らしい希望の年になると私は確信いたします。本当に有難うございます。
               2019年1月31日の記


奥田のコラム(NO286) 気功・太極拳とのご縁に生かされて (その2)仙台&沖縄・太極拳交流会in沖縄 ( 2018/11/03 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 


 2018年10月20日に、仙台と沖縄の楊名時太極拳友好会による交流会が実現しました。
場所は新装なった沖縄空手会館。参加者は仙台から5名、沖縄からは土曜日の教室から20数名が参加。仙台のリーダーは、これから申し上げる佐藤如風さんです。
 佐藤如風さんは宮城県仙台を中心に、東北6県の楊名時太極拳を指導しておられる統括のリーダーです。今回の交流会で知った事ですが、佐藤さんの楊名時太極拳歴は40年との事ですから、まさに人生の大事業を成し遂げた事に匹敵する程の大事業であると私には思えるのです。 
                       
佐藤さんに初めてお会いしたのは、今から6年前の2012年12月12日、日本健康太極拳(楊名時太極拳)協会主催による、沖縄交流会で、全国から100人余の先生方が大挙して来沖され、ラグナガーデンホテルの大ホールで演技をご披露して下さったその時と記憶しております。
初めてお会いした筈なのに、ずっと前からの大親友という気がして、この人とのご縁は、もしかして生涯続くのではないかとの直感が私にはあったのです。

 その後、帯津先生の仲介で、佐藤さんのご著書「風の便り」(第1巻〜第4巻)を送っていただき、読んでいくうちに、“ただならぬご縁の人”と思える様になり、今日に至っているのです。
そしていつの間にか、お互いに仙台と沖縄との更なる太極拳交流会を希望するようになり、とうとう今回の第1回目の交流会が実現することとなりました。

 私は日本の東北地方が大好きです。というのは、高校の時から日本の民謡、特に東北地方の民謡が大好きになり、大学時代は学校の勉強よりも東北の民謡(津軽山唄、じょんがら節、さんさ時雨、山形おばこ、南部牛追い唄、新相馬節等々)に夢中になって取り組んでおりました。私は四国、高知県の生まれですが、民謡を通して、東北地方にも自分の故郷を感じるのです

 楊名時太極拳を通して、佐藤さんご夫妻とのご縁をいただき、もしかしてこれからまた東北とのご縁が深まるかも知れないと思うと、なんとも言えない心のときめきが湧いてきて、嬉しくてたまりません。
    〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
 さて、太極拳交流会は、先ず沖縄から、ようこそ沖縄へ・・・の気持ちを込めて、全員で沖縄の“君が代”とも言われる“かぎやで風”による太極拳(11式)をご披露させていただきました。次に帯津良一先生ともご縁が深く、時々沖縄の海辺に滞在されるスーザン・オズボーンさんの“浜辺の歌”(9式)と、これも沖縄で有名な古典音楽“四ッ竹”(24式)を舞わせていただきました。

 仙台の方々は、喜多郎の音楽でゆったりと24式を舞って下さいました。その後、佐藤如風先生が、太極拳の動作の意味と、楊名時先生から学んだ太極拳についての奥深いお話を、講演して下さいました。
後日沖縄側の出席者に、当日の感想を聞かせてもらったところ、みなさんが声を揃えて、交流会は素晴らしかった。そして佐藤先生のお話は、最高に素晴らしく、もっともっとお聞きしたいと思いました。と、再来沖を希望する声が上がりました。

佐藤先生のお話は以下のような事でありました。(抜粋)
 (1) 楊名時太極拳で一番大事な事は、優しい心を養う事です。

 (2)楊名時太極拳は動く禅(立禅)と言われるように、心・息・動が一体となった動きであり、何よりも心で舞う事が大事です。
(3)大自然と一体になって、あ・い・お・お・くの心掛けを忘れないでいれば、天は必ずその人の味方になって、人生を幸運に導いて下さるのです。
 「あ」は、あせらず、「い」は、いばらず、「お」は、おこらず、「お」は、おこたらず、「く」は、くさらずの頭文字です。

  来年は沖縄から10人程で仙台をお訪ねできる事を念じております。
 東北の紅葉の中で太極拳が舞えたら、これに優る喜びはありません。
  仙台からご来沖下さった佐藤先生ご夫妻、鍵谷さんご夫妻、菊池さんには心からの感謝です。
 心からのお礼を申しあげます。

                          2018・11・3日の記


奥田のコラム(NO285) 気功・太極拳とのご縁に生かされて (その1)神様に導かれた楊名時太極拳への道のり  ( 2018/11/01 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 今から12年前(2006年)の11月1日に、私は義弟の勧めもあって、月に2回のペースで私自身のコラム“いい日・いい人・いい出会い”をスタートさせています。
 今年の7月までは、コラム書きに苦戦をしながらも、何とか月2回のペースは続いていたのですが、実は今年、82歳の誕生日(2018年6月26日)を迎えた頃から突然、足腰に異変を感じるようになり、その異変が何故か、足腰とは無縁と思われるコラム書きにまで狂いを生じさせている自分に気付かされているのです。私のコラム書きは8月、9月、10月と、3ヶ月あまりもブランクが続いたままになっていて、今日やっとの事でこのコラムを書こうと思うに至りました。

  私の足腰の異常は、50歳を過ぎた頃からの、無謀とも思える走り過ぎによる股関節狭窄症であることが判明し、今更ながら納得の大反省をさせられているところです。
 私は50歳を過ぎた頃から突然、それまではまるで雲の上の世界と思っていたマラソンの魅力にとりつかれ、約20年をかけて、5万キロ(地球一周は4万キロだそうです)を走破していたのでした。その頃の無知無能の私は、“人生は走れば走るほど元気になる”との、とんでもない間違いだらけの妄信に惑わされていたに過ぎなかったのです。

  無知無謀ながらも、マラソンに“青春真っ只中の喜び”を感じていた私に、神様はにっこりとほほえみながら、沢山の信じられないようなご褒美と、大きな気づきと、更なる大きな太極の道に通ずる喜びの世界にご縁をつなげてくださっていたに違いありません。
 その喜びの最たるものは1996年、私が60歳になった時の3つの出来事です。

@ 沖縄最南端の波照間島からスタートして、沖縄本島を縦断、九州、本州を駆け抜け、  北海道の宗谷岬までの日本縦断“桜駅伝3000キロ走”を3ヶ月かけて走破した事。
A ボストンマラソン100回記念大会に出場を許され、無事完走出来た事。
B アトランタオリンピック聖火ランナー日本代表の一員にも選出され、アメリカ・ネバダ州ラスベガスの聖道を1キロに渡って走らせてもらった事。
 今から思えばそれらの事事は、まるで夢の中を彷徨っていた至福の時であったような気がいたしております。

 1996年8月3日の事でした。上記の3つの大きな喜びを成し遂げ、いささか有頂天になっていた私は、突然の大きな試練に見舞われる事となりました。
それは台風襲来の前に、庭の樹木の伐採をしていた家内が3〜4メートルの崖から落下。家内は救急車で病院に運ばれたのですが、病院に着いた時の血圧は、上が40という、まさに死線をさまよう絶体絶命にも近い状況で3ヶ月もの入院を余儀なくされたのです。

 誠に幸いにも家内は3ヶ月で手足が動かせるようになり、車椅子で廊下を移動出来るようになった時、リハビリ室の壁にあった1枚の張り紙が目に止まりました。その張り紙には“気功で元気になりませんか”と書かれてありました。家内の元気回復を藁をも掴む思いでいた私は、無我夢中で気功の世界に没入しておりました。気功を指導して下さったのは、クリスチャンの牧師さんでした。
 その頃からの私は、人間の命について模索する日々が続いていたのですが、2002年4月3日、私は、今では“生命の恩師”と慕う帯津良一先生と出会える好運に恵まれたのです。帯津先生はその日の講演会で、「21世紀養生塾」のお話をされましたが、私は帯津先生のお話に心身が震える程の感銘を受け、帯津先生の病院に何度も足を運び、とうとう沖縄にも「21世紀養生塾」の支部を発足させていただける事にまでこぎつけたのです。
 沖縄に21世紀養生塾がスタートしたのは、2003年11月30日の事ですが、特筆すべきは、沖縄養生塾発会式に、帯津先生が、その後の私の人生を大きく変える事となった、太極拳の楊名時先生をお連れして下さった事です。

 私は、楊名時先生の事は噂には聞いておりましたが、お会いするのはこの時が初めてでした。私は楊先生にお会いした瞬間から、楊先生に魅せられ、その頃から、残された自分の人生の全てを楊名時太極拳の世界に没入したいと思うようになっていきました。
  楊名時先生は誠に残念ながら、10年程前に他界されましたが、私の心の中にはいつも楊先生がいて下さっております。私は楊名時先生の事を一日たりとも忘れることはありません。何故なら、私は何があっても毎日楊名時先生の太極拳を舞わない日はないからです。どんなに足腰が痛くとも、そんな時は椅子に座って練功するのです。

 私は楊名時太極拳にご縁を頂いて、今はこれに優る幸せ人生はないと思えております。
ここに至ったすべての人生の出来事に感謝をいたします。   合掌

                       2018年10月31日の記

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