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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO144) 田中一村絵画展に感動!! ( 2012/05/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 沖縄の本土復帰40周年記念事業として開催された「田中一村絵画展」に感銘を受けました。
新聞報道によれば、一万人を超える人達がこの会場に足を運ばれたとの事ですが、私も田中一村の絵には前々から特別の思い入れがあり、この度の絵画展を通して知り得た事は、彼の絵が筆舌に尽くし難い苦悩と、困難と貧困の中で、しかし、如何なる難関にもひるむ事無く、彼のひたむきな、¨画家としての魂の結集¨として生まれてきた事を知るにつけ、深い感動が込み上げて来るばかりでした。

 私は、田中一村は生まれながらにして奄美大島の画家だとばかり思っていたのですが、実の出生地は栃木県で,6人兄弟の長兄として生まれています。彫刻家であった父親の影響を受けての事か、幼少期から神童と言われる程の画才を発揮し、幼くして天皇賞(現在の文部大臣賞)も受賞しております。
 しかしながら、大人になるにつれ日本画壇の流れにはついて行けず、50歳にして単身奄美大島に渡り、以来69歳の人生を閉じるまでこの地で無名の人生を送りながらも、奄美大島の自然の神秘を、あますところなく描きつくす事に生涯を捧げたのでした。

 田中一村の絵に感銘を受けた人は多いのでしょうが、中でも奄美や沖縄諸島の琉球弧に住む人達の目には、息を呑むほどの迫力と親近感を感じさせてくれるに違いありません。沖縄に40年も住みついている私もまさにその中の一人です。

 さて、田中一村の数々の絵が並ぶ中に、ただ一点の¨書¨が飾られていて、私はその¨書¨の前に立ち止り、ある種の感慨にふけっておりました。
その書は彼が20歳の頃に書いたものだそうですが,書の中味は『道法自然』という文字でした。道法自然とは、老子の「人法天、天法地。地法道、道法自然」(人は天にのっとり、天は地にのっとり。地は道にのっとり、道は自然にのっとる)という言葉の最後の四字のようです。

 田中一村が20歳でこの言葉を知っていたとしたら、彼は若くして中国の学問にも精通していたと言う事になり、余程の勉強家であったに違いないと、私は深く感心させられたのです。彼が奄美大島の自然を描く事に精魂を傾けた原点がこの¨書¨の中にあったのではないかと、私は自分なりに大いなる納得をした次第です。

 田中一村絵画展会場の最後の所に書かれていた、「田中一村書簡集」の中にも心に触れるものがありましたので、その中の一部を要約して、ここに書き添えておこうと思います。(以下の文章は田中一村の言葉です)

@ 私が今この島(奄美大島)に来ているのは歓喜の声に送られて来ているのではなく、私の絵描きとしての生涯を飾る絵を描くために来ている事がはっきりしてきました。(51歳の言葉)

A 私は今、実に楽しく絵を描いています。絵が楽しくなくなると、私の言動は狂人に近くなり、私のこの致し方のない性格をよく知って、共に苦しみ、協力してくれたのは姉一人です。(51歳の言葉)

B 私は奄美大島の紬絹染色工場で、工場一の働き者と言われる程、一生懸命に働き、5年間で60万円の貯金をしました。そして3年間にその90%のお金を注ぎ込んで、私の人生の最後の絵を描きつつあるのです。何の念も残すところがないまでに描くつもりです。(64歳の言葉)

C 私の絵は人に見せる為に描いているのではなく、私の良心を納得させんが為のものです。私は絵と対峙しているときは、勇気がコンコンと泉のように湧き,正気が身体中に溢れるのを覚えます。絵を離れるや、深い溜息と身震いと、何者かに胸部を抱きすくめられた様な胸苦しさに、はなはだしい不整脈となり不安妄想の虜になるのです。(61歳の言葉)

D 絵かきは、我儘勝手に描くところに絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになった時は、それは生活の奴隷に転落したのと同じです。(69歳の言葉)

   〈田中一村絵画展から学んだ事〉

*田中一村は琉球弧の自然の美しさを余すところなく描きつくす為に、この世に生まれてきた、たぐいまれなる人物。そして、琉球弧の自然がいかに素晴らしい地球の宝であるかを、世の人々に改めて知らせてくれた琉球弧の大恩人!!。

* 本物の人生を生きると言う事は、どれだけその人に与えられた生命のエネルギーを溢れさせて生きるかと言う事であり、他者の目を気にしたり、地位や名誉に執着する人生を生きるべきではない!!。

* ¨真の芸術は必ずよみがえる¨のことわざがある様に、田中一村の芸術は、いま奄美大島の美術館で、多くの人々に感動を与え続けています。彼は無名のままで69歳の人生を閉じたけれど、彼の魂は、奄美の地で永遠に生き続けているに違いない。人は魂が喜ぶ人生を生きたいものだ!!。
                   (2012年5月10日の記)
写真上:田中一村展のパンフレット
写真中:田中一村の書
写真下:田中一村の人気の絵


奥田のコラム(NO143)沖縄の薬草料理を楽しむ会(その2) ( 2012/05/02 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 いくぶん余談になりますが、私は八重岳のこの教会で、更なる¨2つの大いなる喜び¨にめぐり合う事となりましたので、そのエピソードをコラムに追加しておきます。

 エピソードそのT:「それでもなお、人を愛しなさい」

 この教会の壁に、マザー・テレサが愛したと言われる¨それでもなお¨という十箇条の言葉が掛けられていて、私はしばしその場に立ち止り、釘付けになっておりました。
  
<マザー・テレサが愛した¨それでもなお¨十箇条>

@ 人は不合理で、わがままで、わからず屋です。
それでもなお、人を愛し続けなさい。

A 何か良い事をすれば、利己的な目的があっての事と言われるでしょう。それでもなお、良い事を続けなさい。

B 成功すればする程、手ごわい敵と、うその友達が出てくるでしょう。それでもなお、成功するまでやり続けなさい。

C 今日良い行いをしても、明日には忘れられるかも知れません。それでもなお、良い行いをし続けなさい。

D 正直で誠実な生き方は、あなたを無防備にするでしょう。それでもなお、正直で誠実に生き続けなさい。

E 最大の考えを持った最高の人でも、最小の心を持った人に打ちのめされるかも知れません。
それでもなお、大きな考えを持ち続けなさい。

F 人は弱い人に同情していても、勝利者にしかついて行かない。それでもなお、弱い人のために戦い続けなさい。

G 何年もかけて築いたものが、一夜にして壊されるかも知れません。それでもなお、築き上げなさい。

H 助けた人から、恩知らずの仕打ちを受けるかも知れません。それでもなお、助け続けなさい。

I 人々のために、最善を尽くしても、ひどい仕打ちが返って来るかも知れません。
それでもなお、人々のために最善を尽くしなさい。
            (ケント・M・キースの詩文より)

 エピソードそのU:八重岳教会で気功と太極拳を舞う!!

  私が講師をつとめる「奥武山気功・太極拳教室」には、いろいろな職業の方々が参加されています。教会の牧師さんと熱心なクリスチャンの方々もおられます。いつかチャンスがあれば、私はどこかの教会で自分流の気功・太極拳を舞ってみたいという思いがあったのですが、計らずもこの八重岳の小さな教会の中で、その思いが突然実現する事になったのですから、これ程嬉しいまさかのハプニングはありませんでした。

 この日は¨薬草料理を楽しむ会¨の皆さんと一緒に気功を楽しみ、出来れば太極拳も演じて欲しいという要望は事前に聞いていたのですが、それはあくまで野外の広場を想定しての事でした。
 昼食を終えた頃に、急に雨が降り出して来て、急遽、気功も太極拳も教会の中でと言う事になったのですから、もしかして私の思いは八重岳の頂上に置かれていたあの小さな十字架から、天の神様に届いていたのかも知れません。

 八重岳の頂上(いただき)に立った瞬間、私の頭に浮かんだ事は、沖縄の存在も含めて、地球の素晴らしさと、その地球を誕生させてくれた大宇宙の偉大さでした。
 人類は自分達だけの果てしない欲望の為に、自然を破壊し、大宇宙の摂理に背を向ける行為をしてはならないのです。天に向かって吐いたツバは、必ず自らに返ってくる必然を決して忘れてはならないのです。
                     (2012・5・1日の記)
写真上:八重岳の頂上に建つ十字架
写真中:頂上からの展望
写真下:マザー・テレサが愛した十か条


奥田のコラム(NO142) 沖縄の薬草料理を楽しむ会(その1) ( 2012/04/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 4月から5月にかけての大連休の初日(4月28日)、私達夫婦は思いもかけないお誘いを受ける事になりました。そのお誘いというのは、沖縄本島北部にある標高500m
程の八重岳に登り、近辺に自生する薬草を摘み採り、且つ自分達でそれを料理して食べるというお誘いです。
この会を主催されたのは「沖縄瞑想の会」の方々ですが、私も家内もこのお誘いにはすっかり乗り気になり、この日は朝早くから目をさまし、嬉々として八重岳に向かって車を走らせたのです。

 八重岳は日本で一番早く桜が開花する¨桜の名所¨として有名なところです。実は私はこの八重岳には16年前の忘れられない思い出があり、今回の¨八重岳で薬草料理を楽しむ会¨の参加には、その時の思い出も重なっての参加でした。
 16年前、私は沖縄から北海道宗谷岬までの3,000キロを、桜の開花に沿って走る「日本列島さくら駅伝3,000キロという計画に賛同し、メンバーの一人に加わったのでした。3か月余りをかけて、無我夢中で宗谷岬に到達したのですが、その出発点となったのがこの八重岳の中腹にある¨さくらが丘公園¨だったのです。(コラムNO120に記載)。

 当時私のイメージのなかにあった八重岳は、¨桜の名所¨というこの一点だけに絞られていたのですが、今回の¨薬草料理を楽しむ会¨で集合した地点は、桜とは殆ど無縁の、むしろ八重岳の頂上に近い場所にあって、そこには八重岳の別の顔があったのです。

 この場所には、上地流空手の開祖、上地完文翁が修行の場とされた屋敷跡があり、その跡地に今は小さな教会が建っておりました。朝日と夕日が拝めるという八重岳の頂上(いただき)には素朴な十字架が置かれ、私はこの八重岳の頂上に強い聖地の空間を感じない訳にはいきませんでした。
 
 さて、¨薬草料理を楽しむ会¨に集まった20名程の人達は、自分達で採った薬草を、丁寧に選別し、2時間余りをかけて料理し、その料理の全てが教会のテーブルに並べられた時は、思わず感嘆の声を発してしまいました。自然の恵みの素晴らしさに感謝の手を合わせたのです。
            (2012・4・30の記)

写真上:薬草料理を楽しむ会に集まった人達
写真中:八重岳薬草料理の数々
写真下:教会内での試食会


奥田のコラム(NO141) 志の輔落語101回公演in沖縄 ( 2012/04/15 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 志の輔さんが沖縄に落語を拡められるようになってから約25年が過ぎ、今回の公演回数は101回という事になりました。(2012年4月8日)。
 100回目の記念公演は昨年の4月30日、沖縄国立劇場で約500席を満杯にする盛況ぶりでしたが(コラムNO110に記載)、今回の101回公演は、浦添市に新しくできた1200人収容の¨てだこ(太陽)ホール¨というのですから、¨そんなにお客さんが集まるかなあ・・・???¨と大変心配していたのです。ましてやこの日は、沖縄ではご先祖様をご供養する最も大事な「清明祭」と言われる日に当たっていたので、志の輔ファンの私としては、いつもの2倍の心配事であったのです。

 いざふたを開けてみると、1200席が完売というのですから、びっくりすると同時に安心と感動を受けました。志の輔公演は、いま日本で最も席を確保するのが困難な落語家の公演会と言われますが、それは落語の盛んな東京、大阪、名古屋という大都市での事とばかり思っていたのに、沖縄でもそうらしいのですから、25年前の頃を思うと、まるで夢の中の出来事のような気がしてなりません。

 私事でちょっと気恥ずかしいのですが、志の輔さんと我が家との御縁は、志の輔さんが初めて沖縄に来られ、その当時、国際通りの地下にあった¨沖縄ジャンジャン¨で初公演された時にまでさかのぼるのです。
 それよりも4〜5年前に沖縄ジャンジャンがオープンし、その時からジャンジャンの後援者であられた永六輔さんに志の輔さんを紹介され、志の輔さんの初めての沖縄観光を依頼されたのが私の家内であったと記憶しております。

 
 その時、家内が当時6年生であった末息子の¨淳平¨と一緒に沖縄をご案内しているうちに、何故か志の輔さんが淳平の事をすっかり気に入って下さり、その後に生まれたご自分の息子さんにも同じ発音の¨順平¨という名前をつけられたいきさつを聞かされて以来の¨家族づきあい¨というご縁をいただいているのです。

 さて、101回志の輔落語は、1200名のお客さんが¨志の輔ワールド¨に完璧に酔いしれたのではないかと思われる程の感動がありました。
 第1部は恒例によって、志の輔ならではの新作落語で、タイトルは「牛の花子」。
 ストーリーは、数名の男達が、天下一品と評判の高い黒毛和牛の食べ放題を求めて、或る温泉宿に足を踏み入れた時からの物語です。まさかの¨どんでん返し¨に、1200人のお客さんが息をのむ結果が待っていたのです。

 第2部は、これも恒例になっている志の輔の古典落語で、この日の出し物は「井戸の茶碗」というタイトルでした。
 由緒ある家柄の武士ながらも、貧乏のどん底にあえぐ¨千代田卜斎¨という浪人が、年ごろの娘に着物の一つも着せてやりたくて、床の間に飾ってあった唯一の財産である壺を、くず屋の¨清兵衛¨に頼み込んで200文で引き取ってもらうところから話が始まるのです。この200文の壺は、まさかまさかの運命をたどって、最後の最後は300両という大金の茶碗に姿を変え、お殿様に引き取られる事になるのです。
 志の輔さんの絶妙な話術と奇想天外なストーリーの展開に、1200人のお客さんは一瞬のまばたきも許されないままの1時間半余りの時間を過ごす事になりました。

     *志の輔余話:志の輔ゴルフ物語
 志の輔さんは、いつ頃からそうなったかは知りませんが、特大のゴルフ大好き人間のようであります。私が知り合った頃は、ゴルフのゴの字も話題に出る事はありませんでしたので、多分この10年ぐらいの事ではないかと思うのです。超多忙なスケジュールを過ごされている筈なのに、沖縄公演の時だけは、どうやら公演の前後にゴルフが組まれているみたいなのです。

 私も何度か沖縄でのゴルフ仲間の一人としてお声をかけていただくのですが、私の目に映る志の輔さんのゴルフは、落語に引けを取らない面白さがあって、実に興味深いものがあるのです。
 以前は、ドライバーで遠くにボールを飛ばす事に生き甲斐を求めていたようですが、
最近では寄せとパターにも並々ならぬ思い入れがあるように見受けられます。
 今回、久しぶりにゴルフをご一緒させてもらったのですが、前半42、後半43、合計85のスコア―で回られたのは、見事なものでした。

 志の輔さんのゴルフ熱は、これから先も落語と同様に、とどまるところを知らない世界に昇り詰めるのではないかと、私は予想しております。私は志の輔さんの100歳の落語と、100歳のエージ・シューターを期待したいと思うようになっているのです。
                      ( 2012・4・15日の記)

写真上:志の輔落語101回公演チラシ
写真中:志の輔さんとパームヒルゴルフ場にて(2012.4.7)
写真下:アメリカの淳平に送ってと頼まれたツーショット


奥田のコラム(NO140) 心にしみる選手宣誓、第84回選抜高校野球大会 ( 2012/03/28 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 第84回選抜高校野球大会は、ただ今中盤戦のまっ只中です。
昨年のこの大会は東日本大震災直後の大会となり、その時の選手宣誓は岡山聖志学園の野山主将でした。
 この時の選手宣誓にも深く心を打たれ、涙した覚えがあるのですが(コラムNO106に記載)、今年の選手宣誓にも大勢の人達が感動の涙を流されたのではないでしょうか。私もその中の一人です。

 今年の大会で選手宣誓をしたのは、21世紀枠で初出場となった宮城県石巻工業高校の阿部翔人主将でした。彼は東日本大震災で家が全壊し、友人・知人を亡くしての甲子園出場です。
 私は今年の選手宣誓は、東日本大震災地で、21世紀枠出場という特別の理由から選出されたものとばかり思っていたのですが、そうではなかったのです。32校の封筒の中から、石巻工業の阿部主将が引き当てたのだそうですから、これにはまさかの驚きだったようです。阿部主将はその瞬間「野球の神様がいる」と思ったそうです。それにしても野球の神様は、何という凄い演出を用意してくれていたのでしよう。

 石巻工業高校のある石巻市は、昨年の大震災で3280人が亡くなられ、今も539人の方々が行方不明のままで、石巻工業高校の野球部員も7割が被災し、多くの親族を失っておられるとの事です。
 今大会の宣誓文は、部員のそれぞれの思いをホワイトボードに書き留め、二日がかりで仕上げたそうですが、監督さんはそれらの言葉を整理しながら、溢れでる涙をどうにもこらえる事が出来なかったそうです。

 そんな背景を頭に入れながら、今年の選手宣誓を読み返してみると、胸に深く染みる哀しみと,その哀しみを乗り越えねばならない選手たちの心情が伝わってきて、私は心の中で手を合わせる外はありませんでした。石巻工業・阿部主将の宣誓には¨魂の叫び¨が込められているように思えてなりません。以下は第84回選抜高校野球大会選手宣誓の全文です。

 宣誓
 東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
被災された方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も当時の事や、亡くなられた方々を忘れられず悲しみに暮れている方々がたくさんいます。

 人は誰でも答えのない悲しみを受け入れる事は苦しくてつらい事です。
しかし日本が一つになり、その苦難を乗り越えることが出来れば、その先には必ず大きな幸せが待っていると信じます。

 だからこそ、日本中に届けましょう。感動,勇気、そして笑顔を。
 見せましょう。日本の底力、絆を。

 我々、高校球児が出来る事。それは全力で戦い抜き、最後まで諦めない事です。
今、野球が出来る事に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。

   平成24年3月21日 、選手代表
   宮城県石巻工業高等学校野球部主将   阿部 翔人

*石巻工業高校は、初戦で、九州秋季大会の王者、神村学園(鹿児島)と対戦して5対9で敗れましたが、4回には0対4から一気に5点を奪っての逆転劇を演じてくれました。初出場ながら、あっぱれの一言につきる大活躍でした。

*試合終了後、阿部主将は「勝利を届けられなくて悔しく残念です」と声をつまらせま
したが、日本中の誰一人としてそうは思っていないでしよう。あなた方がみんなで考えられた選手宣誓には、今大会の¨優勝以上のものがある¨と私には思えるのです。

*日本中の高校野球ファンが、今大会のあなた方の事を忘れないでしょう。
 どうか苦しみに耐え、苦難を乗り越えて、また夏の大会に戻ってきてください。日本中がそれを待っているに違いありません。

  ありがとう 石巻工業高校野球部の皆さん!!
  あいがとう 阿部 翔人主将!!
  大きな 大きな 感動を本当にありがとう!!

                 2012年3月28日の記
写真上:選手宣誓をする石巻高校の阿部主将
写真下:甲子園出場を喜ぶ石巻工業高校ナイン
(写真提供:インターネットより)


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