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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO124) 「沖縄の家庭料理を楽しむ会」 ( 2011/10/01 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラムにも書きましたように、沖縄特産の“ゴーヤ“がきっかけで、私はこのところ急激に沖縄の家庭料理に心を惹かれるようになっております。最近は見るもの聞くもの、私の心に真っ先に飛び込んでくるのは沖縄の家庭料理の事ばかりです。

 つい一週間程前のことです。琉球新報の「沖縄の家庭料理を楽しむ会」参加募集の小さな記事が私の目にとまり、私は数日間、この記事のことで頭が一杯になっておりました。行くべきか行かざるべきか、迷いに迷っておりましたが、行くことの恥ずかしさより、行ってみたいと思う気持ちのほうが強く、とうとう出席を実行に移したのでした。
 しかし本当のことを言えば、私の親しい太極拳仲間の女性に声をかけ、彼女の助けを借りて一緒に出席してもらったのです。当日の出席者は15名、案の定、男性は私一人でした。もし私が一人で出席していたら、もしかして私の寿命は2〜3年は縮まることになっていたかも知れません。

 私は直立不動、自分ながら真剣なまなざしで料理の先生の姿を眺め続けておりました。ほんの申し訳程度のお手伝いをしただけなのですが、それでも出来上がった料理の15分の1はしっかりと頂くことができました。今から思うとまるで夢の中の出来事のような気がしているのですが、私はこの料理教室に出席して本当に良かったと今は思っているのです。
その日の料理教室を通して私はいくつかの感動と心に残る大きな勉強をさせていただきました。今回のコラムはその時の印象をお伝えしようと思います。

@ 料理を担当してくださった先生の名前は友利和子さんです。友利先生の年齢は70歳代であろうかと思われたのですが、私が感銘を受けたのは、この先生のお人柄の素晴らしさでした。私のこれまでの印象では料理の先生であれ、先生と名のつく人は、だいたいが少し気位が高くて近寄りがたいところがあるのですが、この友利先生はまるで違うのです。誰にでも優しく、まるで沖縄のお母さんという印象なのです。

 料理教室のあった数日後、もしかして友利先生の料理の本があるかも知れないと思い、書店に行ってみたら、「チャンプルーとウチナーごはん」という友利先生の本に出会いました。この本から知ったのですが、友利先生は1933年のお生まれ、先生のご経歴はそれはそれは輝かしい料理の研究家で、20年以上も続く「沖縄の食を考える会」の主宰者でもあられるのです。
そんな偉人ぶりを全く感じさせない友利先生の魅力に私はすっかり虜になっているのです。

A 友利先生がその日ご指導してくださった沖縄料理は
(1)中味汁(中味とは豚の内臓をきれいに洗って食料     にしたもの)
(2)パパイヤのンブサー(ンブサーとは煮つけのこと)      
(3)沖縄産野菜の炒めもの
(4)沖縄ぜんざい(沖縄のぜんざいは冷たくしたもので    す)
以上の4品でしたが、それぞれが何とも例えようもない美味しさです。
 
  私は40年近く沖縄に住んで、沖縄の料理をそれ程美味しいと思ってはいなかったのですが、友利先生と出会って、沖縄の家庭料理がこんなに素晴らしいものである事を教えていただき、感激しているのです。友利先生の沖縄料理には家庭料理としての品格があります。そして何より家庭料理としての親しみと庶民の味と、毎日食べても飽きない懐かしい母親の味がしみこんでいると私は思いました。何度も言いたいのですが、友利和子先生こそは沖縄家庭料理の本物の達人であり、本物の沖縄料理のお母さんであると私は思っているのです。

B 私は今年75歳の後期高齢者一年生。今健康気功・太極拳の人生を歩んでいる真っ最中ですが、健康人生の基本に食養生がある事はいうまでもない事です。その食養生の原点に沖縄の家庭料理があるのではないかと、最近強く感じるようになりました。

 近年、沖縄の男性の長寿番付が26位に後退しているのだそうですが(女性はまだ日本一)、その原因は近年の食の欧米化によるところが一番の原因だそうです。ブラジルに渡った沖縄からの移住者の寿命が、沖縄に住む人に比べて20歳も短命になるのは、沖縄食から肉食中心のブラジル食に変わったことによるものだそうです。(コラムNO114、ポール森口先生の講演)
C 結論:私が75歳になって今思うことは、日本人の食の原点はやはり日本食中心で、ことに沖縄の家庭料理に学ぶべき点が多いのではないかと言う事です。私の一生はどうやら沖縄が最終点になりそうな気がしているのですが、沖縄に生きて、沖縄に親しみ、そして“天職“とも思える気功・太極拳と二人三脚で“元気な100歳人生“に挑戦してみようと思っているのです。沖縄人生に感謝です。友利先生との出会いに心から感謝です。
                 (2011年9月30日の記)
写真上:沖縄家庭料理の教室風景
写真中:友利和子先生と
写真下:友利和子先生の本


奧田のコラム(NO123) 私は今、WゴーヤWに魅せられています。 ( 2011/09/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

  ゴーヤはナーベラ(へちま)と並んで、沖縄の夏の風物詩を飾る健康野菜として誰からもしたしまれている優等生です。ゴーヤが全国的に知られるようになったのは、今から数年前,NHK朝の連続ドラマ「ちゅらさん」に登場したのがきっかけであったような気がするのですが、その時のゴーヤはあの独特の姿が一種のマスコット役として、携帯のストラップなどに使用される一過性の人気でしかありませんでした。
 そして次は突然、今年の夏です。東日本大震災をきっかけに、今度は省エネ対策の一つとして、日除けのカーテン野菜として脚光を浴びる事となりました。それはそれなりに喜ばしい事ですが、このゴーヤの本当の実力とは、この野菜が健康長寿のエースとして大きな注目を浴びようとしている点にあるのです。

*ゴーヤチャンプルは日本の健康長寿食のエース!!。
上記の言葉を発信しておられるのは、カスピ海ヨーグルトで有名なあの家森幸男先生です。家森先生は世界中の長寿村や長寿者をくまなく訪ね、その要因を研究されておられる第一人者ですが、沖縄の家庭料理であるゴーヤチャンプル(チャンプルとは混ぜ合わせる事、つまりゴーヤと豆腐と鰹節をメインに混ぜ合わせたいため料理)こそはW天下一品の健康長寿食Wと絶賛しておられるのです。ゴーヤチャンプルを常食としている人は、90歳にして70歳ぐらいの若さを保っているとの事ですので、沖縄発のゴーヤ料理が、本格的な脚光を浴びるのは、目の前に来ているといっても過言ではないでしょう。

*私の体験:ゴーヤジュースの威力
 私は沖縄に住んでやがて40年になりますが、早くからゴーヤが健康に良い事は先輩諸氏から聞かされておりました。が、ゴーヤの持つあの強力な苦味にはなかなかついていかれず、むしろ敬遠する方向にあったのでした。それが家森先生のゴーヤ説に出会い、改めてゴーヤに立ち向かっているうちに、私は大発見に気付き、今ではゴーヤの魅力から逃れる事は絶対にあり得ない・・・と思う私に変身しているのです。

 最近は毎朝、家内がゴーヤジュースをつくってくれています.。ゴーヤを絞った濃い緑の原液を、これまた沖縄産のシークアサー(沖縄の小さいみかん)ソーダーで割って飲むゴーヤジュースの味は、なんとも言えない苦味に調和されるのです。以前あれ程敬遠していたゴーヤジュースが絶妙の味となって私の体内を巡るや否や、体中の元気が一気に甦ってくる感じが私にはあるのです。

 私は今年の6月から後期高齢者の仲間入りをしております。
気功・太極拳の健康教室を毎週7〜8箇所受け持っていて、時には一日に3教室を巡らねばならない日などは、さすがに体にこたえるものを感じていたのですが、その疲れは後期高齢者のせいとばかり思っておりました。ところがこのゴーヤジュースをぐい!!っと飲み干した後の教室は、一日3教室も苦にならない以前の自分に返り咲いているのですから、これはゴーヤパワーのお陰としか言いようがないのです。まさにゴーヤ様様と手を合わせる昨今の私です。
 私はゴーヤが手に入る期間は毎日このゴーヤジュースを飲み続け、その後の自分の体調の変化を観察してみようと思っています。いずれその結果はコラムで報告するつもりですが、何かしらわくわくするものがあるのです。

*ゴーヤ物語追申
 一週間ほど前のある太極拳教室での出来事です。集まってくださっている生徒さんたちに向かって、私がゴーヤの魅力のとりこになっている事、そしてゴーヤの苦味がなんとも魅力のある苦味になってきた事などを伝えたところ、生徒さんの一人から、まさかと思える返事が返ってきたのです。その返事とは「ゴーヤの苦味を美味しく思えるようになったら、その人の体は本物の健康体になってきている証拠だそうですよ」でありました。
 私は思わず心の中で、ヤッター!!と叫びました。そしてゴーヤ君ありがとう!!、と両の手を合わせました。ゴーヤとの再会、そして家森幸男先生のゴーヤ大讃辞との出会いに大きな感謝をしております。                               (2011・9・14の記)
写真上:ゴーヤの写真
写真中:ゴーヤジュース
写真下:ゴーヤチャンプルー


奥田のコラム(NO122) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記・余話 ( 2011/08/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 コラム(NO119、120,121)と3回にわたって、私のマラソン人生の思い出を語り終えたつもりでしたが、その直後の8月26日に、我が家のポストには思いがけない一枚の葉書きが届いておりました。その葉書きの送り主は、今や日本落語協会の会長という頂点に昇りつめておられる、あの柳家小三治さんからのものでした。

 私の25年間にわたるマラソン人生の中でも、柳家小三治さんとの思い出はどうしても忘れられない、忘れてはならないW最大の恩人Wという思いが私の心の中にあるのです。
柳家小三治さんの事は以前、どこかのコラムにもちょっと書かせていただいた記憶があるのですが、今回あらためて小三治さんとの思い出に記憶を甦らせながら、感謝の気持ちに変えさせていただこうと思うのです。

 柳家小三治さんとの出会いは今から25年以上も前になるかも知れません。当時、沖縄国際通りの地下に「沖縄ジャンジャン」という小劇場があって、この小劇場の最大の支援者は永六輔さんでした。
永六輔さんは毎月のように、この沖縄ジャンジャンに当時の新進気鋭、あるいは大ベテランの芸能文化人を連れてこられ、沖縄に日本の芸能文化を紹介されておりました。落語界の奇才、柳家小三治さんもその中のお一人でした。
 私はたまたま、そのちょっと前から永六輔さんとの思いがけないご縁をいただいていて、柳家小三治さんもその時に紹介していただき、以来今日までの長きご縁に至っているのです。

 私が柳家小三治さんと25年あまりものご縁が続いている主な理由は、私が小三治師匠の落語ファンと言うことにもまして、私のよちよちマラソンを、小三治さんが影ながら、ずっと応援し続けてくださっていたという理由の方が、大きな比重を占めていたのかも知れません。
 私が各地のマラソンを完走する度に、身にあまる言葉で私を褒め称えてくれる葉書きを送ってくださるのです。初めて完走したナハマラソンの時、初めての海外マラソン(ロンドンマラソン)の時、1万キロ完走とベストタイムで走れたベルリンマラソンの時等々、本当に身に沁みるような有り難い、嬉しい言葉で私を励まし続けてくれたのですから、私のマラソン人生と、その延長線でやっと辿り着いた地球一周40,000キロのゴールインも、半分ぐらいは柳家小三治さんのお陰のような気がしているのです。

 今回のコラムは、柳家小三治さんからその時々にいただいた葉書きの中から三つを紹介させていただき、感謝の気持ちとさせていただきます。小三治さんからいただいた葉書きの一枚一枚、全てが私のマラソン人生の宝物と思えているのです。本当に、本当に、有難うございます。感謝です!!!。                  (2011.8.31日の記)

写真上:初めてナハマラソンを完走した時の葉書き(1988年)
写真中:ベルリンマラソン完走の時の葉書き(1991年)
写真下:地球一周40,000キロゴールインの時の葉書き
    (2011年8月26日)
                            



奥田のコラム(NO121) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記(その三) ( 2011/08/21 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラム(NO120)に書きましたように、私のマラソン人生は、1996年がピークでした。マラソンを開始した1998年(52歳)から8年間の間に20,000キロもの距離を走っていたのですから、我ながら良く頑張ったものだと感心するのです。その後は次第に走り歩きに変わっていかざるを得ない体力となり、後半の20,000キロに要した時間は15年もかかってしまったのですから、体力の配分に気付かなかった自分の未熟さにいささか悔しさが残ります。
 何はともあれ、アトランタオリンピックの聖火ランナー応募で誓った地球一周40,000キロにはかろうじて到着し、約束を守れたのですから神様はきっと大目に見て、認証してくださっているに違いありません。人生の一つの区切りが出来て、今は何かしらホットするものがあるのです。

 さて、自分の体験からですが、人間何かの極致に達した時には、どうやら歌がうまれるものかも知れません。1996年の3っの大事を体験した私にも、それぞれの時に、それぞれの歌が誕生していたのです。
一つめの歌はさくらの咲く頃に、二つ目の歌はボストンマラソンのある4月の頃に、そして三つ目の歌は4年に1度巡ってくるオリンピックの時に、それらの歌が甦ってきて心の中で口ずさむ私がいるのですから、どうやらこの現象は一生ものかも知れません。
今回はその3っの歌の歌詞を記して、「地球一周40,000キロ、ゴールインの記」のコラムを終わりにしたいと思います。
              (2011.8.20の記)

 その一 : 日本列島さくら駅伝3000キロ

1)野を越えて山を越え 町を駆け村越えて
  走り続けた夢の道  走り続けた友情(とも)の道
  ああ・・・日本列島3000キロ
  ああ・・・日本列島さくら駅伝は
  夢と 希望と 友情(とも)の道
2)雨の日も風の日も 雪の日もひたすらに
  走り続けた祈り道 走り続けた感謝道
  ああ・・・日本列島3000キロ
  ああ・・・日本列島さくら駅伝は
  汗と 祈りと 感謝道 

   ああ・・・日本列島さくら駅伝に
   さくら吹雪の花が舞い 舞い散る花は雪桜

 その二 : ボストンマラソン

1)ホプキントンの丘に立ち めざすはボストンあの丘だ
  心臓破りの丘の上  息子が私を待っている
  妻と2人で待っている
2)心臓破りの丘までは 35キロのはるか道
  息子と交わした約束の 時間は3時30分
  時間に遅れてなるものか
3)約束時間が過ぎたなら  息子はその場を去るのです
  バーミン行きの飛行機に 乗らねば明日の学校に
  間に合う事ができません
4)歯をくいしばりくいしばり 必死で走ったボストンの
  心臓破りの丘の道    やっとの思いで辿り着く
  ついた時間は3時半
5)ああ嬉しやと立ち止まり 息子の姿を探します
  いくらさがせど見えません 息子の姿が見えません
  妻の姿がただ一人
6)聞けば息子は5分前 心を残して去りました
  あまりの人の混雑に 大事をとって去りました。
  涙を呑んで去りました
7)思わずその場にうづくまり もう立つことも出来ません
  妻が私に言う事に   息子の心はボストンの
  ゴールで私を待つのです
8)妻の言葉に励まされ 気を取り直して立ち上がる
  足を引きずり顔ゆがめ 走り歩きの我慢道
  息子の姿が 目に浮かぶ
9)足が折れても行くのです 心臓止まろが行くのです
  目指すはボストンあのゴール 夢にまで見たあのゴール
  何が何でも行くのです
10)はるか彼方に見えてきた 遂にゴールが見えてきた
  ボストンゴールが見えてきた 夢のゴールはもうすぐだ
  夢のゴールは目の前だ
11)遂にやったぜゴールイン ボストンマラソンゴールイン
  憧れ続けたボストンの   マラソン遂にゴールイン
  生涯一度のゴールイン
12)ゴールのはるかその先に   私を待ってる人がいる
  妻と息子の面影が      笑顔で私を待っていた
  にっこり笑って立っていた
13)ああボストンよ有難う   ああマラソンよ有難う
  妻よ息子よ有難う     生まれて生きて60年
  生まれて生きて60年


その三 : アトランタオリンピックW聖火の道W

1)聖火の道は赤く燃え 心震えた神の道
  聖火の道は優しくて 涙溢れた愛の道
  アトランタ アトランタ アトランタ
  心震えた神の道   涙溢れた愛の道

2)聖火の道は輝いて  夢と希望に光る道
  聖火の道は平和へと 世界を一つに結ぶ道
  アトランタ アトランタ アトランタ
  夢と希望に光る道  世界を一つに結ぶ道

写真上:さくら駅伝の応援に駆けつけてくれた長男と次男
写真中:ボストンマラソンの応援に来てくれた末息子
写真下:聖火ランナーの応援に来てくれた家内と妹


奥田のコラム(NO120) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記〔その二) ( 2011/08/15 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラム(NO119)に書きましたように、私のマラソン人生は、第1回ナハマラソンの失敗で完全に息絶えていた筈なのに、それから3年後、何故かマラソンの神様は私をロンドンという夢の舞台に導いて下さったのでした。ロンドンマラソンは私の心に火をつけ、その後の私の10年間は、朝に昼に夜に、見るもの聞くもの全てがマラソンの日々の中にあったような気がしております。
 ロンドンマラソンをきっかけに、私のマラソン人生はナハマラソン11回完走と、メルボルン、ベルリン、ボストンマラソン等々へと繋がっていくのですが、何といっても私のマラソン人生の華は1996年の3っつの出来事に象徴されるように思えます。今回のコラムはその3っつの華に焦点を絞って、想い出にふけってみたいのです。

(T)日本列島さくら駅伝3000キロ(1996年3月〜5月)
 1996年、桜の開花に沿って、沖縄最南端の波照間島から、北海道最北端の宗谷岬までをタスキをかけたリレーで走破しようという計画が持ち上がり、実行に移されたのです。この計画の仕掛け人は、私にロンドンマラソンを迫ったあの比嘉良雄さん、そしてこの計画に真っ先に両手を挙げて賛同したのは私でした。行程の内容はマイクロバスに常時7〜8名のランナーが乗り込み、一日100キロ前後を交代でタスキを繋ぎながら走るという主旨です。
 3ヶ月あまりをかけて何とか無事に宗谷岬にゴールインしたのですが、この間、雨の日、風の日、吹雪の日に見舞われながらの行程は、筆舌に尽くせないものがありました。今から思えばよくぞまああんな無謀な事を・・・と思うのですが、何も知らない状況の下、唯ただ、若さと夢と実行力だけで
やり遂げた日本縦断マラソンのような気がしております。

(U)ボストンマラソン第100回記念大会(1996年4月15日)
 ボストンマラソンは3時間半以内で完走しなければならないマラソンのプロ集団のような人達が走る最高峰のマラソンです。1996年のボストンマラソンは第100回記念大会ということで、5時間以内という条件で、沖縄からも「地球を走る会」のメンバー15名程が参加を認められ、好運にも私もその中の一人に加わる事が出来たのです。
 この大会に私は特別な喜びと残念さがあるのです。
この時期アメリカに留学していた末息子(当時18歳)が、留学先のアラバマ州バーミンガムからボストンまで応援に駆けつけてくれたのでした。学校の関係で土、日しか休みがとれず、マラソン当日の日曜は帰りの飛行機の出発時間から逆算して、マラソンの35キロ地点で時間を約束したのですが、私はどんなに歯を食いしばり頑張ってもその時間に間に合わなくて、ほんの少し遅れをとってしまったのです。その時すでにその場所に息子の姿はなく、私はその場にしゃがみこんでしまいました。
 殆ど走る気力はなくなっていたのですが、ここであきらめては息子に申し訳ないと思い立ち、再び気力を振り絞って残りを走りぬきました。完走タイム、4時間32分50秒でした。本当に懐かしい忘れがたいボストンマラソンです。

(V)アトランタオリンピック聖火ランナー(1996年5月3日)
 1996年はアトランタオリンピックの年でした。(オリンピック100回大会)
この頃の私は毎日が走り漬けの日々でした。そんな或る日、アトランタオリンピック聖火ランナーの募集を知らされ、その募集に応募するように強く薦められました。
薦めてくれたのは日頃の私の姿を見ていた妹でした。
応募の条件は400字の原稿用紙に「オリンピックの夢」というタイトルの文章を書いて出す事でした。私はただ頭に浮かぶままを書いて締め切りの2日前に投函した覚えがあります。
何日か経ってすっかり忘れていた頃の或る日、いきなりWおめでとうございます!!。選考委員会で今あなたが聖火ランナーの一番に選ばれましたWと言う電話があったのです。私は目の前が真っ白くなり、暫らくは夢遊病者の如く部屋の中をさまよっていたようです。

 アトランタオリンピックのスポンサーはアトランタに本社のあるコカ・コーラさんでした。
アトランタオリンピックは100回記念大会という事で、コカ・コーラさんは世界中から10,000人の聖火ランナーを募集し、日本からは26名がその対象にあったと聞きます。日本での応募者数は24,000人だったそうですから、私はおよそ1000分の1の宝くじを引き当てた事になるのです。
 コカ・コーラさんは私達日本人の聖火ランナーをVIPとして扱ってくれました。私が走った所は
ラスベガス郊外の1000mでしたが、泊まったホテルは当時世界最大といわれたMGMホテルで、一泊\60,000もする部屋でした。その広い部屋で私はなかなか寝付かれず、聖火ランナーのユニフォームを身につけて部屋の中をぐるぐる走っておりました。
 私の聖火ランナーを応援するため、家内と妹が私とは別の飛行機でラスベガスまで駆けつけてくれました。聖火ランナーは私の生涯に残る最高の想い出です。
終わりに、聖火ランナーに応募した文章を記載しておきます。    (2011・8・15)

<オリンピックの夢>
 オリンピック!!、
それはこの地球上に咲く世界で一番美しい五輪の花、世界で一番大きな平和の花、そして世界で一番楽しい競演の花であると思います。
 私は今年60歳で、沖縄地球を走る会のメンバー。
私達は、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、メルボルン
モントリオール等を走り、今年はいよいよ念願のボストンマラソンに挑戦です。
世界各地のマラソンを通して、スポーツこそは世界共通の平和と友好の証である事を実感するのです。
 オリンピック聖火ランナー!!、それは私達市民ランナーにとっては永遠の憧れ、そして最高の夢物語です。
 52歳から走り始めた私のジョギングは、いまやっと、地球半周の2万キロに辿り着きました。
アトランタの地に聖火ランナーの夢を描きながら、これからまた地球一周4万キロのゴールを目指して、コツコツと地球の走り旅を続けてみたいと思っているのです。

写真上:さくら駅伝東京ゴール(千鳥が淵にて)
写真中:ボストンマラソン完走おめでとう
写真下:聖火ランナー伴走者と〔ラスベガス街道にて)

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