 | 奥田のコラム(NO119) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記(その一) | ( 2011/08/13 ) |          |  2011年7月31日は、私にとってはなんとも感慨深い、記念すべき日となりました。それは今から25年も前に、ひょんな事からマラソンという、まるで雲の上の世界をさまよい始めるようになってから、いつしか25年の時を経て、コツコツと積み重ねてきた距離が地球一周といわれる40,000 キロに達していたのです。 野球のイチロー選手が、世界新記録の安打を放った直後に、「小さなことを積み重ねていく事が、とんでもないところに到達できる唯一つの道です」という名言を残されましたが、事の大小は別にしても、今の私にはこの言葉が身に沁みるものがあるのです。
私が描いていた地球一周のゴールインは、あのニューヨークマラソンだったのですが、何でも無い 普通の日にその時が訪れていたのですから、幾分残念な気もするのです。が、それはそれなりに、私には意味あることかも知れません。この日の夜、なかなか結婚しなかった娘が、W結婚を決めたWと彼氏を連れて報告に来てくれたのですから、偶然とはいえ、私には何よりの嬉しいプレゼントとなりました。 何はともあれ、四分の一世紀(25年)をかけてやっと辿り着いた私の人生の大きなメモリーです。 今回のコラムは心をゆったりと静めて、ここに至るまでのマラソン人生に思いを馳せてみたいと思うのです。
* ナハマラソンがスタートしたのは今から四分の一世紀前の1985年と記憶しています。この時のマラソンこそが私を雲の上の世界にご縁をつなぐきっかけとなってくれたのです。 その頃の私はマラソンとは縁もゆかりもない、走る事が大嫌いな人間でしたが、どうしてもこのマラソンには参加しなければならない事情があっての参加でしかありませんでした。丁度その頃の私は50歳を目前にしていて、まあ50歳の思い出に出てみるか・・・程度の事でしたが、いざ走ってみると42.195キロというマラソンの世界はどれ程ハードで、どれ程神聖なものであるか、それはまるで人生そのものという学びを頂いた貴重な体験となりました。 私は20キロ地点で精根尽き果てて横道に逃れる他はありませんでしたが、私の目の前を通り過ぎてゆくランナー達の姿に手を合わせた時の事が今もはっきりと脳裏に焼きついているのです。もしかしてこの時から私の人生は始まったのかもしれません。
* 私がマラソンに打ちのめされた時から2年が過ぎた或る日の事です。あるホテルでの忘年パーティーで、一人の人物から声をかけられる事になりました。声をかけてくれたのは私と同年生で、時折ゴルフの仲間でもありました比嘉良雄さん(当時オリオンビール副社長)でした。比嘉さんは私の顔を見るなり、Wそうだ奧田さん、来年のロンドンマラソンを一緒に走りましょうW!!。と言って、参加者名簿に同意のサインを迫られたのです。 参加者名簿の顔ぶれを見ると、エッ!!、この人達が本当に???と思えたのですが、その時の私の頭の中は、WロンドンマラソンWという夢の世界だけが拡がっていたので、2年前の無残な失敗などすっかり忘れて、私はその場でその名簿の中の一人に加わっていました。
後で解かったのですが、参加者名簿に名前を連ねた人の殆どは、走るのではなく、応援団の人だった事を知り、思わず天を仰いだのですが、全ては後の祭りでした。 しかしながら、人生とは不思議なものです。その時の見事なだまされ方が、その後の私の人生に とてつもない好運をプレゼントしてくれる事になるのですから、人間たまには思い切って騙されるのも大事な事の一つかも知れませんね。(コラムNO120に記載予定)。
サインをしたその日の夜から私のマラソン人生は再開する事となりました。当時住んでいた首里金城町の坂道や、西原街道をどれ程一生懸命走った事でしょう。星の夜は星を眺めては星の彼方にロンドンを思い浮かべ、月の夜は月の彼方にロンドンを描きながらのトレーニングでした。その当時の苦しみは、どんなに苦しくてもWロンドンマラソンWというまばゆいばかりの目標が全ての苦しみを希望の力に替えてくれていたのでしょう。今から思えば最も幸せの時だったかも知れません。
* 1989年4月23日のロンドンマラソンは全てが夢の中の出来事でした。グリニッチ天文台を出発してカティーサークの船が停泊している広場、ロンドン塔、トラガルガー広場等々ロンドンの名所を駆け抜け、最後のクライマックスはバッキンガム宮殿前を通りぬけ、いよいよゴールはあのビッグベンのふもとにかかるウエストミンスター・ブリッヂの真ん中です。私は感動と感謝の中でゴールインを果たすことが出来ました。生涯の思い出です。人生を変えてくれたマラソンでした。
* あれ程好きではなかったマラソンも、ロンドンマラソンを境に、マラソンこそは青春の華と思えるようになりました。人生は何が起こるか本当にわからないのです。最後まであきらめてはいけないのです。私のマラソン人生はナハマラソン11回の完走と、沖縄マラソン、マスターズマラソン、メルボルン、ベルリン、ボストン、そしてアトランタオリンピックの聖火ランナーへと繋がっていくことになったのです。それぞれのマラソンにはそれぞれの感動があるのですが、全部を書きとどめるスペースがありません。記録に残る完走マラソンの場所とタイムを記してこのコラム第一部を終えることにします。 ( 2011・8.13日の記)
写真上:夫婦で完走したナハマラソン(1991,12,1日) 写真中:感動のロンドンマラソン(1989.4.23日) 写真下:ベストタイムが出たベルリンマラソン (1991.9.29日)
<私の主なマラソン完走記録>
@、1988年12月04日 ナハマラソン 5:02:48秒 (52歳) A、1989年04月23日 ロンドンマラソン4:43:24秒(52歳) B、1990年10月14日 メルボルンマラソン4:36:33秒(53歳) C、1990年12月09日 ナハマラソン 5:16:40秒 (54歳) D、1991年09月29日 ベルリンマラソン4:13:49秒 (54歳) E、1991年12月01日 ナハマラソン 5:32:37秒(55歳) * 奥田泰子ナハマラソン 5:48:59秒(45歳) F、1992年12月06日 ナハマラソン 4:53:35秒(56歳) G、1993年12月05日 ナハマラソン 4:57:22秒(57歳) H、1994年12月04日 ナハマラソン 5:02:52秒(58歳) I、1995年12月03日 ナハマラソン 4:55:47秒(59歳) *1996年3月〜5月 さくら駅伝日本縦断 J、1996年04月15日 ボストンマラソン4:32:50秒(59歳) *1996年5月3日 アトランタ聖火ランナー K、1996年12月01日 ナハマラソン 4:39:15秒(60歳) L、1997年02月16日 おきなわマラソン5:22:02秒(60歳) M、1997年12月07日 ナハマラソン 5:15:24秒(61歳) N、1998年12月06日 ナハマラソン5:37:24秒 (62歳)
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