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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO264) 真央ちゃん、たくさんの感動をありがとう!! ( 2017/04/17 )

 
 ¨真央引退¨

 
 ¨笑顔の引退記者会見¨

 
 ¨ソチ五輪伝説のフリー演技¨

 
 ¨ソチ五輪感動のフィニッシュ¨

 
 ¨真央ちゃんの美しいポーズ¨

 
 ¨世界選手権初の金メダル¨

 フィギュアスケートの浅田真央さん(26歳)が突然の引退を発表され、4月12日にその記者会見がありました。会場に集まった報道陣は何んと430人、テレビカメラ50台、スチールカメラ100台との事ですから、真央ちゃんの人気が如何に凄いものであったかが私達にも伝わって来るのです。
 ちなみに、過去のスポーツ界の引退会見では、マラソンの高橋尚子さんの時が180人、
女子サッカーの澤穂希さんの時が300人の報道陣であったそうです。

 今になって改めてフィギュアスケートの事を振り返ってみるのですが、私達(私と家内の事です)がいつの間にかフィギュアスケートの虜になっていたのは、極言すれば、そこに浅田真央さんの存在があったからではないかという気がしてなりません。
 中でも2014年のソチ五輪でみせたあのフリーの演技こそは、浅田真央さんの運命を決定づけた奇跡の瞬間であったと私には思えております。あの時以来、私の中では、世界のNO1の女子フィギュア選手は浅田真央さんであり続けているのです。真央さんのスケートには、真央さんにしか表現できない¨優雅にして気品に満ちた美しさ¨が漂っていると私には思えるのです。

 浅田真央さんの選手としてのスケートはもう見る事は出来ませんが、真央さんのスケートは大勢の人々の心の中と、世界のフィギュアスケートの歴史に燦然と輝き続けるに違いありません。私は今世紀に生まれ、真央ちゃんのスケートに出会っただけでも、十分有難い事だと思っております。
 永い間本当にお疲れ様でした。そして沢山の感動を有難うございました。とはいえ、これからの人生の方がはるかに長いのですから、どうぞ更なる素晴らしい楽しい人生を歩んで下さる事を心より願っております。
                         2017・4・16日の記
   《以下は各界の著名人のコメントです》

(1)高橋大輔さん:競技会からは離れる事になりましたが、僕は『浅田真央』のスケートが大好きです。また一緒に氷上でスケートが出来る事を楽しみにしています。長い間の現役生活、本当にお疲れ様でした。そして沢山の感動をありがとう。

(2)織田信成さん:試合で頑張っている姿が見られないのはすごく寂しい。五輪の金メダルは取れなかったけれど、心の中にずっと残る選手。フィギュアスケートに愛された天使でした。

(3)羽生結弦選手:真央さんは私のスケートの恩師です。これからもずっと憧れの人です。沢山の夢を有難うございました。本当にお疲れ様でした。

(4)メドベデワ選手:真央さんの引退はとても残念。世界のフィギュアが寂しくなる。彼女は伝説のスケーターで、お手本です。

(5) 内村航平選手:長い間女子フィギュア界を引っ張っていた姿、見ている人を魅了する演技にいつも刺激をもらっていた。今後の活躍を期待しています。

(6)井上康生日本男子柔道監督:彼女は国民全体が自分の娘や妹の様に応援したくなる雰囲気があった。浅田選手は競技者としての強さや美しさ、人間としての魅力を兼ね備えていた。

(7)橋本聖子日本スケート連盟会長:今日のスケート界躍進があるのは、浅田選手が世界の頂点を極め続けた大活躍のお陰です。ひたむきな努力とそれを支えた人間力に心より敬意と感謝を申し上げます。

(8)浅田舞さん:本当にお疲れ様でしたと言う言葉と、ありがとうと言う気持ちを伝えたいです。真央は明るく晴れやかな気持ちで次に向かって歩き出したので、私が涙を流してはいけません。今後も姉妹で助け合っていきたい。

* 浅田真央さんの言葉:晴れやかな気持ちで引退の日を迎える事が出来ました。スケートが人生そのものでした。スケート人生で経験した事を忘れずに、これから新たな目標を見つけて、笑顔で前に進んでいきたいと思っています。
みなさん、応援どうも有難うございました。


奥田のコラム(NO263) ありがとう、稀勢の里の大逆転優勝劇!! ( 2017/03/31 )

 
 大相撲優勝決定戦「稀勢の里対照ノ富士」 1

 
 大相撲優勝決定戦「稀勢の里対照ノ富士」 2

 
 大相撲優勝決定戦「稀勢の里対照ノ富士」 3

 
 大相撲優勝決定戦「稀勢の里対照ノ富士」 4

 
 感動の大逆転優勝

 
 おめでとう稀勢の里

 コラムを2か月程休んでしまいました事をお詫び致します、。
良く知られる諺に、¨1月は行く、2月は逃げる、3月は去る¨と言う言葉がありますが、2017年もアッ!!という間に 3ヵ月が過ぎ去ろうとしております。

 今年は新年早々に、世界の大方の予想に反して、アメリカ大統領にトランプ氏が選出され、余りに過激と思える数々の発言に、世界中が振り回されていた感があります。

 2月に入ると今度は北朝鮮の金正男氏が、マレーシアのクアラルンプール空港で、事もあろうに白昼堂々と暗殺されると言う映像が飛び込み、おそらくこの出来事もトップニュースとして世界中を駆け巡ったに違いありません。
 お隣の韓国では、大統領の朴クネさんが大統領職を罷免され、遂には逮捕される事態にまでなり、国論を二分する程の騒動になっております。

 3月後半の日本では突如として¨森友学園¨のニュースが持ち上がり、日増しに問題が大きくなり、もしかして大きな政治問題にもなりかねない気配になって来ております。
 それにつけても、今の時代に「教育勅語」を暗唱させる幼稚園があり、その延長線を目指す小学校がつくられ、更にはその教育方針を信奉する政治家達がその背後に見え隠れするのですから、大多数の日本国民はこの現実に大いなるとまどいを覚えたに違いありません。私も全くその一人です。

 私の住む沖縄では、ジュゴンの住む宝の海とまで言われる¨辺野古の海¨が、米軍の新基地建設の為に埋め立てが開始され、貴重な動植物が住む¨高江の森¨は次々と樹木が伐採され、何と100機とも言われるオスプレイ駐機場が次々とつくられているのです。
 大自然を壊す事は、地球を破壊する事です。地球を破壊する事は人類の滅亡に繋がる事に他なりません。本当に残念でなりません。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
                         
 上記のような心穏やかならざる月日が流れる中、心の底から喜べる出来事に巡り会えました。それは大相撲3月場所、千秋楽における稀勢の里のまさかの大逆転優勝劇です。日本中の全ての相撲ファンは、あの日あの大一番を生涯忘れる事は無いのかも知れません。まさに歴史に残る大一番であったのではないでしょうか。
 最近の相撲にあまり魅力を感じなくなっていた私も、この度の大逆転劇には感動の一言があるのみです。稀勢の里の健闘を称え、稀勢の里のこれからの横綱人生の長からん事を期待し、陰ながらの応援をしたいものであります。
 おめでとう稀勢の里関!!。ありがとう稀勢の里関!!。心からの感謝です!!。

                 2017・3・31日の記


奥田のコラム(NO262) 私の2017年の元旦は1月23日でした ( 2017/01/27 )

 
 志の輔落語 in NIPPONN

 
 志の輔落語 ごあいさつ

 
 志の輔落語の講演会一覧

 
 

 
 

 
 

2017年の新年が明けて、やがて一か月が過ぎようとしているのに、私の心の中は、なかなか¨新年おめでとう¨の文字が書けない、もやもやの日が続いておりました。
その理由は二つあったのです。一つは新年早々に、私の40年来の心の友が84歳で他界されたとの通知が届けられた事であります。

 その心の友と出会ったのは、今から40年以上前の事です。小笠原諸島が日本に復帰した記念事業として運航された¨小笠原船の旅¨の中であったと記憶しております。
お互いにまだ40歳前の年齢でありましたが、彼はその当時、アメリカのトンプソンという広告会社にデザイナーとして勤務していて、私の目には彼の振る舞いすべてが格好良くて、何とも言えない気品とセンスと優しさに満ち溢れた人物でありました。

 その時から彼との何かしらのお付き合いは続いておりましたが、最後に彼と会ったのは、今から10年余り前、彼が沖縄に来て下さり、『将来は沖縄に住みたい』と言って下さり、その日がやって来るのを待ち焦がれていたのに、突然彼は帰らぬ人となってしまったのです。残念でなりません。無念でなりませんが今は只、両手を合わせて、彼のご冥福を深くお祈りする他はないのです。

 私はこの心の友からは、人生のセンスについて実に沢山の学びをいただいたと確信しております。さようなら、わが心の友よ、次は宇宙の世界で、魂の触れ合いをさせて頂きたいと私は念じております。それまで私の事を忘れないで待っていて下さい。
40数年の永きに渡って本当にお世話になり、有難うございました。

   〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 もう一つの理由は、昨年7月7日に虚空に旅立たれた永六輔さんとの想い出です。
年賀状を整理していたら、永六輔さんから沢山の葉書が出てきて胸が熱くなってしまいました。
 永六輔さんとの出会いは、今から30年以上も前であったと思います。その永六輔さんを紹介して下さったのは、沖縄平和祈念堂の壁画を描かれた、当時フランスに住んでおられた西村計雄画伯です。とても不思議なご縁と思うのですが、ここの所を書いていたら、かなりのページが必要と思われますので、次の機会にさせていただきます。

 永六輔さんは、その当時、とても人気のあった¨沖縄ジャンジャン¨という小劇場に出演される数々の著名な方々を紹介して下さり、私の目を大きく開かせて下さった大恩人でもありました。そんな中のお一人が落語家にして、NHK−TV¨ためしてガッテン¨の名司会者として著名な立川志の輔さんがおられるのです。

 立川志の輔さんが初めて沖縄に来られて、沖縄ジャンジャンに出演されたのは、今から28年も前の事でありました。沖縄ジャンジャンの舞台を終えられて、永六輔さんは一足先に東京に帰られましたが、沖縄に一人残された立川志の輔さんの沖縄案内を託されたのは、私の家内と当時小学校6年生であった末息子でありました。この時のいきさつについては(コラムNO141)に記させていただいております。

 さて、立川志の輔さんは、沖縄にご縁が出来てからの28年間に、何と沖縄全島で
105回もの落語公演をされておられるのです。そして106回目の公演は2017年1月23日に沖縄国立劇場で、¨志の輔らくご in NIPPON¨のタイトルで、これまでに例のない一人三題の大舞台を披露されたのですから、ビックリ仰天でありました。
題目は@ 質屋暦、A モモリン(新作落語)、B 紺屋高尾の大作を、3時間に渡って熱演されたのです。只々凄いの一言であります。私は自分の生涯でこんな凄い¨落語の会¨に出会えた事を本当に有難いと思いました。

 公演を終えた後、夜10:00時頃から関係者が集まった¨お疲れ様の会¨がありましたが、この席で奇しくも志の輔さんは『今日の舞台を永六輔先生に視て欲しかった』と申されたのでした。永六輔さんがこの舞台を視ておられたら、きっと志の輔さんの手をギュッと握りしめて、¨ヨー、日本一!!¨と志の輔さんの耳元でささやいたに違いない、と私には思われました。

¨志の輔らくご in NIPPON¨(沖縄公演106回目)を拝見させていただいたその時から、私の心のもやもやは、どこかに消えて、まさに¨ぬちぐすい¨ (沖縄の方言で命の洗濯の事)をさせていただきました。私の2017年の元旦は1月23日であったと思っております。
 立川志の輔さん、永六輔さん、本当に本当に有難うございました。
                             2017.1.26日の記



奥田のコラム(NO261) ありがとう2016年・80歳の思い出の記 ( 2016/12/31 )

 
 リオ五輪2016

 
 第6回世界のウチナンチュー大会

 
 アメリカ息子家族写真

 
 7年ぶりの家族全員集合写真

 
 孫たちと一緒に

 
 天遊会20周年記念発表会にて

 2016年もいつの間にか、今日は大晦日となってしまいました。
2016年は、私にとっては80歳突入と言う、人生の大きな節目の年でもあり、感慨深いものがあるのです。80歳の節目に、何かいい人生の思い出に恵まれる事を期待していたところ、願ってもないいくつかの出来事に恵まれ、今は¨ありがとう2016年¨、と言う感謝の言葉だけが身体中に拡がるばかりです。

 思い出に残る第1の出来事は、何といっても今年の8月に開催されたリオ・オリンピックです。リオ五輪を通して私の目に映ったリオ・デ・ジャネイロ市民の太陽の様な明るさには、¨人生の全てが青春¨とも思える程の情熱に溢れておりました。
 今年の6月に来日されたあの¨世界で最も貧しい大統領¨と言われる南米ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の魅力と共に、私はすっかり南米のファンになってしまいました。もしも願いが叶うものであれば、私の来世は南米のどこかに生まれてみたいと思ったりしているのです。(コラムNO254にも記載)

 次なるビッグな出来事は、今年の10月末に開催された「第6回世界のウチナンチュー大会」です。今から100年程も前に、南米を中心に世界中に新天地を求めて海を渡ったウチナンチュー(沖縄出身者)達は、今では世界中に42万人も拡がっているのだそうです。そのウチナンチュー達が5年に1回、ふるさとの沖縄に里帰りする歓喜の姿には深く胸を打たれるのです。(コラムNO258にも記載)

 私は沖縄に永く住んでいますが、沖縄生まれではありません。沖縄で生まれた私の子供達は県外にも移り住んでいますが、末息子だけは中学を卒業してから単身アメリカに渡り、以来20年余りアメリカの地に住み続けております。
 そのアメリカ息子が家族を連れて7年ぶりに沖縄に里帰りをしてくれました。県外に住んでいる2人の息子も急遽沖縄に帰ってくれて、7年ぶりに家族全員の再会を実現させてくれたハプニングは、私達老夫婦(80歳の私と70歳の家内)にとって、これに優る喜びはありませんでした。

 最後は私の個人的な出来事でしかありませんが、今から丁度20年前、家内の突然の事故入院がきっかけでご縁をいただき、今では天職とも思えている気功・太極拳養生塾の会(天遊会)が今年20年を迎え、その記念発表会を実現させていただけた事は、私にとっては望外の喜びでありました。9月22日の事でした。

 コラムNO225、226にも書いておりますが、「天遊会」こそは天なる神様から授かった¨私の天職¨と思う様になっております。私はこれからもこの天職を通して生涯をかけて、人様の¨健康と長寿¨のお役に立ちたいと願っているのです。私の目指すところは¨元気な100歳人生¨です。
2016年は本当に有難い、いい年でありました。2016年本当にありがとう!!。

      2016年12月31日・大晦日の夜の記


奥田のコラムNO(260) 第32回那覇マラソンと第70回福岡国際マラソン ( 2016/12/13 )

 
 第32回那覇マラソンスタート風景
沖縄タイムスより

 
 第70回福岡国際マラソンスタート風景

 
 川内選手の雄姿

 
 川内選手のラストスパート

 
 川内選手のゴールイン

 
 川内選手の涙

 第32回那覇マラソンと、第70回福岡国際マラソンが、2016年12月4日に行われました。この二つのマラソンは毎年同じ日に行われるので、その両方のマラソンに関心がある年は、テレビチャンネルの切り替えに苦労しなければなりません。今年は、私にとってはまさにその年となり、殆ど一日中、テレビの前に釘付けになっておりました。

          <第32回那覇マラソン>
 那覇マラソンは今年32回となり、今年の参加者数は何と26573人、何時の間にか日本を代表するビッグマラソンに成長しております。今年のマラソンは気温が102年ぶりの28度と言う事で、さすがに完走率は53.2%となりましたが、出場者の皆さんは、それぞれ忘れられない人生の思い出を残されたに違いありません。マラソンは苦しければ苦しい程、その思い出が長く心に残り続けるものです。

 実は私は、那覇マラソンには第1回大会から参加しておりました。その時の私は49歳でした。参加した理由はマラソンが好きだったからではありません。むしろマラソンは私の中では雲の上にあるもので、最も嫌いなスポーツでありましたが、どうにも断る事が出来ない事情があっての参加でしかありませんでした。

 マラソン嫌いの私がマラソンに出る事が知人・友人の間に拡まり、3K地点と20K地点に応援の¨横断幕¨が準備されている事がスタート直前に知らされ、3k地点は無事に通過したものの、20k迄の道のりはまるで地獄の中をさまよう思いでありました。20k地点では地面を這うが如くに歩いていた哀れな自分の姿が、未だに忘れられない想い出として残っているのです。

 その後の私は、或る事がきっかけで奮起し、第4回大会から10年連続那覇マラソンを完走、その間には、ロンドン・メルボルン・ベルリン・ボストンマラソンも完走、1996年にはアトランタオリンピックの聖火ランナー日本代表の一人にも選ばれ、更には沖縄から北海道宗谷岬までの3000Kリレーマラソンにも出場していたのですから、人生は本当に解らないものです。私は数々のマラソンを通して、実に沢山の人生の学びを頂けたと思っています。

 私は現在80歳。65歳位からはマラソンとのご縁は遠くなっておりますが、近年は私の姪っ子や甥っ子達が、那覇マラソンに参加するようになり、1年に1回、那覇マラソンで親戚筋が沖縄に集まるようになり、新たな喜びを感じる様になっております。
 那覇マラソンを通して、沖縄が再びまた日本有数の健康長寿県に返り咲き、更にはマラソンを通して、世界中の若者達が¨世界の平和¨について学んでくれる事を私は念じて止みません。

       <第70回福岡国際マラソン>
 マラソン界の事を少し勉強してみると、福岡国際マラソンこそは、日本マラソン界を先導してきた偉大なマラソンである事に気付かされます。年々歳々時代は移り、歴代のマラソン界のスター選手達も次々と変わっていく事は仕方のない事ですが、私が今年の福岡国際マラソンで最も気になり、応援したかった選手は、あの公務員ランナーである川内優輝選手でありました。

 彼は一昨年の那覇マラソンには30回記念大会と言う事もあって、福岡国際マラソンを断って那覇マラソンに参加して下さり、本物のマラソンの凄さを私達の目に焼き付けてくれました。
彼が那覇マラソンに参加してくれた折、奇しくも彼が半世紀(50年)余りも年齢の違う大学の後輩である事を知る事となり、大会後の懇親会では、私は彼と隣り合わせの席に座らせていただける事となり、(私が一番年上だったからです)あまりに素晴らしい彼の人格に接して以来、私は熱烈なる川内ファンになっているのです。

 彼は今年の11月には右ふくらはぎを痛め、福岡国際マラソンの2日前に、今度は左足首を捻挫するアクシデントに見舞われながらの出場だったと聞いておりますが、大方の予想を振り切って全体の3位、日本選手の第1位のゴールをやり遂げたのですから本当に感動物でした。ゴールインした後に見せた川内選手の一筋の涙の姿を、私は忘れる事が出来ません。彼はこのレースに彼のマラソン人生の全てを掛けていたに違いありません。

 彼の今回の頑張りは、必ずや来年の世界選手権大会の日本代表に繋がる事でしょう。そして彼のマラソン人生の最終目標こそは、2020年の東京オリンピックに違いありません。川内選手にどんなマラソン人生が待っていようとも、彼がマラソン人生を続けている限り、私は一生懸命、心の応援を続けていこうと心に決めているのです。
川内優輝君、いつも素晴らしい感動を有難う!!。本当に本当に有難う!!。

                  2016.12.12日の記


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