 指導者養成クラス 奥田泰子リーダーと共に   指導者養成クラス 三枝祥子リーダーと共に   指導者養成クラス 新崎洋子リーダーと共に   指導者養成クラス 垣花美恵子リーダ^ーと共に   指導者養成クラス 喜屋武幸子リーダーと共に   宮古教室の演舞 |  2016年10月、私は只今80歳の真っただ中を生きて生かされているところです。80歳になると、まさかと思える身体の変化や異常に気付かされる日々の連続です。 身体のどこも異常が無かった頃は、人間生きている限り、何かのお役にたてる人生であらねばならないと思っていたのですが、80歳になった今は、人間生きている限り、これからは、なるだけ世の中に迷惑をかけない人生を心掛けなければならない、、と思う様にもなってきているのです。
80歳の人生を振り返ってみると、あまりにいろいろな事があり過ぎて、どうにも筆が前に進みそうにもありません。今日は、私が気功・太極拳人生を送るに至ったいきさつを少し書かせていただき、80歳の区切りにしたいと考えます。
今から20年前の私は、まだ60歳で元気そのものでした。50歳〜60歳の10年間は、私は何故かそれまでの人生で一番好きでなかった、マラソン人生に明け暮れておりました。そしてこの年、私にとってはまさかと思える三つの大事業をやり遂げておりました。
@ 「日本縦断さくら駅伝3000K走」の仲間の一人として、沖縄波照間島から北海道宗谷岬を目指して駆け抜けておりました。かかった日数は述べ3ヵ月でした。 A ボストンマラソン100回記念大会にもまさかの出場が許され、無事完走を果たしました。 B この年1996年はアメリカ・アトランタオリンピックが開催された年でもありましたが、私は聖火ランナー日本代表の一人に選ばれると言う好運にも恵まれておりました。
私にとって1996年(60歳)は、まるで夢の中をさまよっているような人生でしたが、人生はいつ何が起こるか、本当に解らないのです。その年の8月の或る日、家内がまさかの突然の事故で、救急車で病院に運び込まれると言うハプニングに見舞われたのです。病院に着いた時の家内の血圧は、上が40で、まさに生死をさまよう状況でありました。 家内の病院生活は3ヵ月で何とか車椅子で移動できるまでに回復したのですが、そんな中、私は病院のリハビリ室の廊下に張られた一枚の紙に目を奪われました。その紙には「気功で元気になりませんか?」と書かれておりました。
わらをもつかみたいその時の私は、すぐさまその貼り紙の部屋を訪ね、その日から何が何だかわからないまま、私の気功人生の第一歩が開始されたのです。勿論家内も車椅子で参加しておりました。 その後の私は、帯津良一・楊名時というその世界の大先生に巡り会える幸運にも恵まれ、いつしか20年の歳月が流れているのです。
家内はその後すっかり元気になり、今は二人の小さな孫(1歳と3歳)と中学生の孫の世話に悲鳴を上げながらも、私と一緒に、気功・太極拳の助手として私を支えてくれるまでになっております。 私はその後も増々、気功・太極拳の世界に魅せられ、我が信ずる人生の道を歩ませていただいております。毎日が感謝の日々であります。 2016・10・23日の記
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