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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO254) 感動と感謝の¨リオ・オリンピック2016¨ ( 2016/08/30 )

 
 リオ五輪の最大のテーマは¨地球環境の保全¨

 
 リオ五輪・日本選手団の入場

 
 男子体操団体金メダル(琉球新報より)

 
 男子400メートルリレー・歴史的な銀メダル獲得のメンバー

 
 ブラジルを代表するサンバのリズムとあざやかな色彩に彩られた会場

 
 閉会式の日の丸¨See You in TOKYO 2016¨

 リオ・オリンピックが終わって1週間程が経ちました。
リオと日本との時差は丁度12時間程でしたから、昼夜が真逆と言う状況が2週間あまりも続いたのです。日本中の大多数の人達は、この間、眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。 私も全くその一人でしたが、日本選手団の大活躍(オリンピック過去最多の41個のメダル)には大いなる感銘を受けました。それぞれの競技でベストを尽くされた選手の皆さんには、心からの¨ありがとう¨を伝えたい気持ちで一杯です。

 マスコミ関係の報道では、リオ五輪は大会直前まで準備の遅れや、社会不安や、ジカ熱などの不安材料ばかりが報じられ、出場を辞退する選手も少なくありませんでした。
世界中がリオ五輪の開催を危ぶむ中、いざふたを開けてみれば、リオ五輪は最初(開会式)から最後(閉会式)まで、ものの見事に、ブラジル&リオならではの素晴らしい感動に満ちたオリンピックをやり遂げてくれたのですから、世界中が驚いたに違いありません。まさに¨あっぱれのリオ五輪¨でした。

 今から思えば、リオ五輪には下記の様な思いが込められていたに違いありません。

@ 世界中の友情が一つになるスポーツの祭典である事。
A その国の文化こそは、その国の誇りであり、その国のエネルギーの源である事。
B 21世紀最大の重要事は、地球環境の保全である事。(どんなにその国の経済が栄えても、自然破壊による発展には地球を滅ぼし、人類を破滅させる危険が潜んでいる)。

 リオ五輪を通してテレビに映ったリオ・デジャネイロの街並みは、緑に包まれた美し
い街々でした。リオ市民の顔は屈託のない笑顔に満ちておりました。リオのカーニバル
に代表されるサンバのリズムには、ブラジルの生命の躍動が溢れておりました。私はこ
れまでのどのオリンピックよりも、リオ五輪に熱い声援と拍手喝采を送っていたのでし
た。

 リオ五輪を見るまでの私のブラジル認識度は、日本の真裏にあって、とてつもなく大
きな大陸である事。アマゾンの大河を有する未開の国。サッカーとリオのカーニバル
に代表されるサンバの国、位の事でしかありませんでしたが、リオ五輪のお陰で次の様
な知識を得る事となりました。

@ ブラジルは日本の約23倍の面積を有する大国で、人口は日本の約2倍の2億5000万人。
A ブラジルには既に160万人に近い日系移民とその子孫が住んでおり、日系人はブラジルでは模範的なマイノリティーとしての評価を受けている事。沖縄からの移民の歴史も110年も前にさかのぼる事。
B 現在17万人のブラジル国籍の人達が日本社会の一員として、日本での活動の幅を広げてくれている事。そしてブラジルは世界でも有数の親日国である事、などです。

 2016年のリオ五輪を通して、リオ―東京の友好は勿論の事、ブラジル―日本の友好の輪が大きく拡がり、確固たる友好国になる事を私は強く希望して、今日のコラムを終える事にいたします。ありがとう¨リオ・オリンピック2016¨!!
 9月8日から始まるリオ・パラリンピック2016の成功を祈ります。
                     2016・8・29日の記 



奥田のコラム(NO253) 永六輔さんとの想い出(番外編) ( 2016/07/31 )

 
 永六輔さんが司会をする沖縄ジャンジャン

 
 永六輔さんから紹介される奥田

 
 屋良文雄トリオと一緒に

 
 沖縄ジャンジャンで歌う奥田

 
 亡き母が仕立ててくれた着物を羽織って歌う奥田

 
 日本ビクターから発売された日本民謡のレコードジャケット

 昨日(7月29日)、やっとの事で永六輔さんとの想い出話(NO1,NO2、NO3)を書き終える事が出来てホットしていた矢先、一夜明けての今日になって、それとなく本棚を整理していたら、殆ど私の記憶から消え去っていた永六輔さんとの数枚の写真が出現したのです。

 その写真とは、事もあろうにこの私が30年程も前に、永六輔さんの主催する沖縄ジャンジャンのステージに登場していたのですから、本当にまさかのびっくり仰天であります。どうしてそんな事になったのか一生懸命思い出してみたのですが、大体のいきさつは以下の様な事であったような気がしております。

 その頃の永六輔さんは、さかんに津軽三味線や、能楽や、浄瑠璃の演奏者や、日本民謡などのゲストを、沖縄ジャンジャンにお迎えしておりました。
 たまたま日本民謡の齋藤京子さんが出演された時、何かのきっかけで、私が大学時代に日本民謡にのめり込んで、さかんにジャズとの共演をしていた事が永六輔さんの耳に入る事となり、是非とも沖縄ジャンジャンでそれを再現してみよう・・・と言う事になった次第です。

 その時のステージには、日本民謡には必ず必要とされる三味線も、尺八も、太鼓も何もありません。あるのはその当時、沖縄ジャズ界の重鎮であられた、今は亡き屋良文雄さんトリオの伴奏で、私がタキシードを着て日本民謡を歌ったのですから、果たしてどんなステージになっていたのか、今思い出すだけでも身体中に冷や汗がにじみ出るばかりです。

 そのステージの元となったのは、私が大学を出た直後位に、日本ビクターから出された『ビクターみんなの民謡 奥田清特集』というレコードでした。このレコードが世に出たのは、今から50年程も前の事で、わが青春の想い出として、今も私の本棚の片隅に10枚ほどが置かれたままになっております。

 以上が私と永六輔さんとの想い出の¨沖縄ジャンジャン物語¨です。今回のコラムに書くべきかどうか随分悩んだのですが、私の耳元で永六輔さんがさかんに書け書けと叫んでくれているような気がするものですから、恥を忍んで思い切って書く事に致しました。
                2016・7・30日の記
 



奥田のコラム(NO252) 永六輔さんとの想い出(その3) ( 2016/07/29 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 「二度とない人生だから」という詩が発表された後30年経って、作者の坂倉真民さんは「新・二度とない人生だから」という詩を後世に残しておられます。とても素晴らしい詩と思いますので、この際その新詩もここに紹介させていただきます。

   <新・二度とない人生だから>       坂倉真民

二度とない人生だから 一日でも長く生きて 世の為 人の為に何かをしよう

二度とない人生だから 母なる地球を 優れた星にするために
           大宇宙大和楽の真言を 一篇でも多く唱えよう

二度とない人生だから 前向きに生きて 心眼を開き 感謝と喜びに燃えよう

二度とない人生だから 宇宙無限の気を吸引摂取して 
           悔いのない人生を送ってゆこう

二度とない人生だから 日本民族の使命を知り 信仰と希望と愛に生きよう

二度とない人生だから 一つのものを求め続け 一念不動 花を咲かせて
           実を結ばせ 自分の夢を成就しよう

二度とない人生だから  鳥たちの様に 国境のない世界を目指し
            共存共栄の地球造りをしよう

二度とない人生だから 華厳のお経が咲く様に すべては心の置き処
           気海丹田 ここで心を練り ここで呼吸をしてゆこう

                           2016・7・28日の記


奥田のコラム(NO251) 永六輔さんとの想い出(その2) ( 2016/07/29 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 永六輔さんという方は、とても頑固者であった反面、とても気さくで、誰にでも気配りをして下さる優しい人であったと私は思っております。ご自分から提案された催し物などについては全くお金とは無縁の人でした。いつか気になって出演料の事をそれとなく訪ねた事がありますが、永さんはただ黙って、0〜∞と書かれて以来、お金の事で私に気を使わせる事は一切ありませんでした。
 そして沖縄に来られる時はいつも前もって葉書を下さり、沖縄から帰られた後は必ずまた¨ありがとう¨の葉書を下さる方でした。お蔭で私の手元には実に沢山の葉書があるのです。

 永六輔さんとお知り合いになれて暫く経った頃であったと記憶しておりますが、或る日、一通の分厚い封筒が届いた事があります。その封筒の中には永六輔さん直筆で¨二度とない人生だから¨という坂倉真民さんの詩が綴られておりました。
 今から思うと、永六輔さんと出会え、このお手紙を頂くまでの私は、まるで世間知らずの情けない大人でしかなかったような気がしております。永六輔さんと出会えて、この手紙の中の詩に触れた頃から、私はほんの少しずつ、そこそこの大人になれて来ているのかも知れません。

 私にとって永六輔さんは、まさに人生の恩人でありました。その時のお手紙は私にとっては大事な人生の宝物と思い、今も大事に保管させていただいております。今日のコラムには、その時の手紙の詩を書かせていただこうと思います。

<二度とない人生だから>       坂倉真民さんの詩

二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう
            一羽の鳥の声にも 無限の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから 一匹のこおろぎにも 踏み殺さない様に心してゆこう
             どんなにか喜ぶことだろう

二度とない人生だから   いっぺんでも多く便りをしよう
             返事は必ず書く事にしよう

二度とない人生だから   まず一番身近な者たちに 出来るだけの事をしよう
             貧しいけれど 心豊かに接してゆこう

二度とない人生だから   露草のつゆにも めぐり合いの不思議を思い
             足をとどめて みつめてゆこう

二度とない人生だから   昇る日 沈む日 丸い月 欠けてゆく月
            四季それぞれの光にふれて わが心を 洗い清めてゆこう

二度とない人生だから    戦争の無い世の実現に努力し
             そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう
             私が死んだら 跡を継いでくれる若い人達の為に
             この大願を書き続けてゆこう
                              2016・7・28日の記



奥田のコラム(NO250) 永六輔さんとの想い出(その1) ( 2016/07/29 )

 
 チャリティー絵画展で西村先生に紹介され、初対面のころの永六輔さんと

 
 永さんが企画して下さったサロンパーティー風景・中村八大さんのピアノと永さんのお話

 
 サロンパーティー風景・たくさんの方々が楽しいひと時を過ごしました。

 
 サロンパーティー風景

 
 中村八大さんと私(奥田泰子)

 
 永さん・八大さんと記念写真。首里の森ギャラリーのスタッフ

 永六輔さんの訃報が報じられてから2週間が過ぎました。実際に亡くなられたのは2016年7月7日の七夕の日だったそうです。
7月7日は、永さんの事が大好きだった私の母の命日でもあり、私には何かしらのご縁を感じないではいられません。

 永六輔さんとのご縁をいただいたのは、今からもう40年近くも前の事かも知れません。その当時沖縄では¨一枚の絵¨と言う会社が、沖縄本島の南部にある「沖縄平和祈念堂」を支援するためのチャリティー絵画展を毎年のように開催しておりました。その平和祈念堂の壁面を飾っているのは、当時パリに住んでおられたに西村 計雄画伯が、毎年沖縄に来て、沖縄を題材にして描かれた100号の大作ばかりです。

 その当時の私は、¨絵心¨などというものとはまるで無縁の人間でしたが、或る日ある時、ある雑誌で目にした¨ひまわり¨という、まさに一枚の絵に、瞬時に心を奪われ、その時からこの¨ひまわり¨を描かれた西村計雄さんの事が生涯忘れられない人となってしまいました。
 西村計雄さんはチャリティー絵画展に合わせて、毎年1回フランスから来沖されておりましたが、私は年に1回の再会が待ちきれず、とうとうフランスのアトリエまで訪ねた程の熱狂ぶりでした。

 西村計雄さんが何回目かのチャリティー絵画展で沖縄に来られた時、どうしても私に会わせたい人がいるから・・・と言って紹介して下さったのが永六輔さんでした。西村計雄さんは、遥かな昔、早稲田中学校の絵の先生をしていて、永さんはその時の教え子だったのだそうです。
 初対面での永さんは全くの無口で、ニコリともしない、とても¨怖い人¨という印象でしたが、何時しか心を開いて下さり、気が付いた時には家族のお付き合いをさせて頂ける程までにさせていただいておりました。

 その頃の永六輔さんは¨沖縄ジャンジャン¨という小劇場の応援で、2か月に1度位の割合で沖縄に来ておられました。来られる時いつも各界の多才なゲストと一緒でした。何人かのゲストの中には、その当時の人気者であった、おすぎとピーコさんもおられ、たまたまこのお二人の高校が、私の妹と同じ横浜市保土ヶ谷区にある桜ヶ丘高校であった事がご縁で、急速に親しくなり、永さんとご一緒に度々私の家を訪ねて下さる事となりました。

 その当時の私の家は首里金城町の高台にあって、私はそこで¨首里の森ギャラリーという珊瑚と沖縄伝統工芸品の店を経営しておりました。永六輔さんはその店の空間をとても気に入って下さり、この場所で時々はサロンパーティーをしよう・・・!との提案をして下さり、以来数年にわたってこの場所は、永さんが沖縄に来られた時は、永六輔さん主催によるサロンパーティー会場に変身しておりました。
 
 実に沢山のゲストの方々が永六輔さんとご一緒にこの場所に来て下さいましたが、今すぐにでも思い出せるお名前だけでも、先ずはおすぎとピーコさんを初めとして、歌手の坂本スミ子さん、ピアノの中村八大さん、女優の吉行和子さん、市原悦子さん、俳優の小澤昭一さん、加藤武さん、作家の神吉拓郎さん、秋山ちえこさん、落語の入船亭船橋さん、柳家小三治さんなどでした。半分以上の方々がすでに他界しておられますが、今をときめく書家の石飛博光さん、落語家にしてNHK−TV、¨ためしてガッテン¨の立川志の輔さんなどは、いまだに30年以上もお付き合いが続く著名な方々です。

 30〜40年の時の流れには実に感慨深いものがあるのですが、私が沖縄にご縁を頂き、仕事以外の世界で、これ程楽しい想い出人生を送らせていただけたのは、まさに永六輔さん以外の何物でもありません。言葉に尽くせない程の感謝を胸に、永六輔さんのご冥福をお祈りするばかりです。永六輔さん、本当に、本当に有難うございました。
                 2016・7・28日の記

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