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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO249) 第3回・帯津良一先生を囲むファンクラブの集い ( 2016/07/17 )

 
 講演する帯津先生

 
 講演会風景

 
 帯津先生と参加者全員で新呼吸法「時空」の実技

 
 新しく普及員になられた方々

 
 懇親会風景・その1

 
 懇親会風景・その2

 2016年7月3日、上記の会が沖縄ホテルで開催されました。
帯津先生の健康を中心とした沖縄講演会は、2003年にスタートして以来2013年迄の10年間は毎年2回、計20回の回数を重ね、21回目の2014年からは、名称を「帯津良一先生を囲むファンクラブの集い」と改め、年に1回の密度の濃い会となっています。

 名称が変わってからの第1回目はワシントンホテル(現・スマイルホテル)、2回目は沖縄本島の中部にあるコスタビスタホテル、そして3回目の今年は沖縄ホテルでの開催となりました。
 会場選びはその都度、その時々に何かしらのご縁をいただいたホテルが主会場となっておりますが、今回の会場となった沖縄ホテルは、沖縄観光の父と呼ばれる故宮里定三さんが設立された由緒あるホテルです。

 私はこのホテルの宮里定三さんにはとても良くしていただき、1972年、沖縄国際海洋博覧会を機に沖縄に来た時から、30年余り沖縄の観光の仕事に係らせていただけたのは、宮里定三さんのお陰であったと言っても過言ではありません。
 宮里定三さんは1999年に故人となられましたが、今回この沖縄ホテルで、帯津先生の会を開催させていただけた事は、私にとっては特別に感慨深いものが有り、大変嬉しく、有難く、感謝の気持ちで一杯です。

 さて1年ぶりにお会いした帯津先生は、今年の2月17日に80歳になられたそうですが、増々お元気で、お姿のどこにも¨老¨のかけらも感じられませんでした。
 私はつい先日(6月26日)、80歳になりましたが、私の身体は79歳の頃から足腰に赤信号が点滅しております。私は何としても帯津先生のお元気にあやかりたいと思って頑張っているつもりですが、今回の帯津先生のお話の中に、大元気の大きなヒントを見つけたと思っておりますので、私なりの言葉でまとめてお伝えしようと思います。帯津先生の今回の演題は『自然治癒力と養生太極拳』でありました。

    講演 : 自然治癒力と養生太極拳

(1) 帯津先生は常々、人間の一番いい死に時は83歳前後であると申しておられましたが、最近ある人との対談を機に、いやいや80そこそこはまだ人生の小僧でしかないと思う様になったとの事です。
 その人物とは、女優の司葉子さんのご主人であられる相澤元大蔵政務次官です。
相澤さんは若い頃は戦場にも行かれ、あらゆる人生の苦汁を嘗め尽くした後も、今なお96歳の人生を矍鑠と生きておられるのです。そのお姿に接した時から、自分(帯津先生)も96歳を目指してみようと思う様になったそうです。

(2) 相澤さんは70歳の時、胃がんを宣告され、主治医から大好きだった煙草(1日120本)と酒のどちらかを断つようにと厳重注意され、考えた末に煙草を捨て、お酒に人生の生き甲斐を求めたのだそうです。
 相澤さんの傍には常に30歳位の美人秘書がついていて、お酒を飲む時もその美人秘書が傍に付き添っておられるそうです。どうやら男性の大健康、大長寿の最大の秘訣はその辺にあるのでは・・・と帯津先生は申しておりました。

(3) 帯津先生は80歳になられたのを機に、34年間続けておられた日本ホリスティック医学協会会長の職を降りられたそうです。それ迄は人間丸ごとを見るホリスティック医学が最もあるべき医療の姿であると思っていたけれど、80歳を過ぎた今の考えは、大自然、大宇宙、大虚空と一体となった大ホリスティック医学こそが、これから目指すべき医療の世界であると思う様になったとの事です。

(4) 自然治癒力についての科学的な定説はまだ決まったものはないのだそうですが、¨宇宙なる神¨からいただいている自然治癒力こそはまさに人間の生命の原点にあるものです。そして、その自然治癒力を高めるために最も良い方法の一つは虚空と身心を一つにして舞う太極拳であると思う、との事です。

(5) 気功(太極拳を含む)の3原則は「調身」、「調息」、「調心」です。
「調身」とは体を調え、上虚下実の状況下に身を置く事。「調息」とは大きな深い呼吸を心掛ける事。いい呼吸とは腹式呼吸で全身に虚空のエネルギーを行渡らせ、身体中に溜まったエントロピー(毒素)を体外に放出させるのです。「調心」とは雑念を払い、何事にもとらわれない平常心を保つ事です。

(6) 太極拳は中国大陸を滔々と流れる「長江」の如くに、留まる事のない流れに相通じるものです。生きていると言う事は流れていると言う事です。太極拳には大ホリススティック医療を髣髴させる生命の躍動と、心のときめきと、虚空の世界を創造できる無限のエネルギーが宿っていると思われます。

* 講演の後で、帯津先生が考案された新呼吸法「時空」の実演があり、会場が一体となって呼吸法を体感する事となりました。

* 今回の講演会を機に、帯津先生から次の方々に21世紀養生塾の普及員認定証が渡されました。日ごろの努力に敬意を表し、更なる指導員への目標に向かって精進されます事を期待します。
 受賞者氏名:新崎 洋子さん・垣花 美恵子さん・喜屋武 幸子さん・大城孝幸、奈緒美ご夫妻(名古屋在住) 


* 第2部の懇親会は、出席者の誰もが帯津先生を身近に感じられる、とても楽しい食事会でした。懇親会のフィナーレは宮古島から参加した人達のリードで、宮古島のクイチャー踊りで盛り上がりました。恥ずかしがり屋の帯津先生がこの輪の中に入り、クイチャーを一緒に踊られたのは、沖縄ならではのまさかのハプニングであったのかも知れません。
                   2016・7・16日の記


奥田のコラム(NO248) 80歳の誕生日に思った事 ( 2016/06/30 )

 
 80歳の太極拳

 
 太極拳の仲間たちに囲まれて

 
 もうすぐ1歳になる孫・音羽

 
 もうすぐ3歳になる孫・希望

 
 13歳の孫・拓夢

 
 

 2016年6月26日、私は80歳になりました。80歳にして思う事は、いよいよ人生の最終コーナーに足を踏み入れたなー・・・と言う覚悟と、いやいやまだこれからが本番の人生だ!!、という思いが混じり合っているのが正直な今の気持ちであります。

 今から10年程前、私は自分のおおよその寿命について考えた事がありました。その答えは75歳でしたが、理由は、父親の63歳と母親の88歳の人生を足して2で割った数字に他なりません。あまりに単純すぎて、自分の心の中だけに秘めていた数字ですが、75歳の後期高齢者を過ぎても私の身体のどこにも¨老化¨は感じられないままにその後の年月は過ぎておりました。

 ところが80歳を目前にした78.5歳位の頃から、急に足腰の衰えを感じるようになり、あれだけ夢中だった50歳からのマラソン人生も、今では遥かに遠い夢の世界に後退し、そればかりか、歩くのも今では1qを歩くのに15分〜20分もかかる有様です。大・大・大好きだったゴルフも、沖縄の夏の暑さの中ではもうどうにもなりません。秋の涼しさを待つばかりです。

 かろうじて続いているのは毎週2回の割合で通う水泳と、これだけは死んだ後も続けていたいと思う¨気功と太極拳の世界¨です。気功と太極拳の教室は、今でも週に7ケ所の教室に出向いて指導にあたらせていただいております。やがて20年の歴史が刻まれようとしております。

 80歳になった今、最高の喜びにして最大の難題は、毎週2回、判で押したようにやって来る、やがて3歳になる孫(男)と10カ月になる孫(女の子)の襲来です。この2人の孫は当然ながら、80歳の私と70歳の家内の体調とは全く無関係で、勇んでやって来るのです。保育園が終わる夕方5時頃から8時頃までの約3時間、我が家の小さなマンションはまるで戦場となるのです。
 私も家内も この2人の孫がやって来るという情報が入るやいなや、すぐさま横になって体調を整えておかねばなりません。そして孫が帰った後の老夫婦は、そのままその場にバッタリと倒れ込んでしまうのです。

 我が家のマンションには、今年の4月からもう一人の新しい中学生が下宿をしております。石垣島在住の長兄孫(13歳)が、今年から新設された沖縄県立開邦中学校に合格し、我がマンションの1室に同居する事になりました。
 13歳になるこの孫は、とてもじいちゃんばあちゃん孝行で申し分のない孫ですが、何しろあまりに元気すぎて朝も早いのです。学業の他に、週一回の早朝水泳と、夕方のバイクローラーの練習、夕方のランニングトレーニングをこなし、学校が休みの際には土曜・日曜の長距離ツーリングやトライアスロン大会の参加、水泳記録会の参加など
ハードなスケジュールをこなしています。その為家内は朝の4時・5時起きで朝食の準備と弁当づくりをしなければなりません。4月・5月・6月の3ヵ月で少しはこの生活に慣れかけたようにも見えますが、とにかく可愛い孫の為に、ばあちゃんは身を粉にして一生懸命頑張ってくれております。

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 80歳の誕生日の翌日、我が家のポストにはまさかの郵便物が入っておりました。
それは「年金生活者等支援給付金」のお知らせでした。私達夫婦はまさしく年金生活の真っ只中に生活している身分ですが、この貴重なお金を何に使えば良いのであろうかと、私は一生懸命考えました。熟慮の結果、私は以下の事に使わせていただこうと思うに至りました。

 私は40〜50年程も前から、とてもやりたくて何故か実現出来ていない小さな夢がありました。それはギター伴奏によるシンガーソング・ライターの夢でした。40〜50年前に手に入れていたギターも、殆ど使われないまま、私の80歳の人生の傍にずっと居つづけてくれております。
 私はこの度、国からいただけるこの貴重なお金を、ギター教則本の購入に充て、80歳からの最後の手習いを始めてみたいと思う様になりました。残されたぎりぎりの人生をゆっくりと楽しみながら、少しずつ頑張ってみようと思っています。

 今からちょうど20年前、アトランタオリンピックがあった年(私はこの時60歳でアトランタオリンピックの聖火ランナー日本代表の一人に選ばれておりました)の次のお正月の早朝に、私は不思議な夢を見て目を覚ましました。その夢とは、周囲が滝に囲まれた池の中にある大きな石の上で、一人の白髪の老人が、静かに気功(太極拳?)を舞っていたのです。しかも、その石の上で舞う人物は私で、何んと100歳になっておりました。目を覚ました時、私は思わず「気功元年・100歳元年」と書きとめた記憶が脳裏に焼き付いているのです。実はその時から私の¨気功・太極拳人生¨はスタートしているのです。
 *アトランタ・オリンピックの事については、コラムNO36,NO37に記しております。

 私は自分自身の健康人生の為にも、そして私とのご縁をいただいてくれている人様の健康の為にも、更には、今一番幼い一歳の孫が20歳を迎える姿を見届けるまで、元気なおじいさんでいたいと願うのです。あとまだ20年を生きねばなりませんが、私の80歳の誓いはやはり、何はさておいても¨元気な100歳人生を目指して¨であります。
                 2016・6・29日の記


奥田のコラム(の247) 怒りと悲しみの追悼式に65,000人結集 ( 2016/06/22 )

 
 6月19日県民大会に結集する沖縄県民(沖縄タイムスより)

 
 6月19日県民大会に結集する沖縄県民(琉球新報より)

 
 県民大会会場風景

 
 翁長 雄志沖縄県知事

 
 玉木 愛さん

 
 

 沖縄の梅雨が明けて間もない6月19日、沖縄県奥武山陸上競技場に集まった沖縄県民の数は、何と6,5000人にも達したとの新聞報道です。
気温32度、殆ど日陰も無い猛暑の炎天下に、これだけの人達が必死の思いで参加したこの現実を、日米政府の要人たちはどんな思いで見ていたのであろうかと、私はあらためて凝視しないではいられませんでした。

 大会終了後に発せられた菅政府代表官房長官のコメントは、「この集会には日本政府を支援する自民党、公明党、維新の会の人達は参加していないのだから、全く気にしておりません」でした。私はこのコメントを聞いた瞬間から、あまりに非情な日本政府の事を大嫌いになってしまいました。

 事の起こりは(コラムNO244にも書いておりますが)、今年の5月中旬、夕方のウオ―キングに出かけたはずの20歳になる名護市民の女性が、突然米軍属の男に拉致され、暴行され、殺害され、その遺体を米軍基地沿いの森に遺棄していたのですから、沖縄中が、またしても悲しみと怒りの渦の中に巻き込まれてしまったのです。
 終戦後70年が経った今でも、沖縄ではまだこんな残酷な悲劇が続いているのです。

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 6月19日の追悼式でスピーチされた方々の中から、3人の方の挨拶をここに記させていただき、しっかりと私の心の中にも留めておかねばならないと思います。

(その1) 翁長雄志沖縄県知事の挨拶(要約)
 先日、被害者が遺棄された場所に花を手向け、手を合わせてまいりました。
心の底から「あなたを守ってあげる事が出来なくてごめんなさい」と言葉が出てまいりました。日本政府は沖縄県民の怒りが限界に達しつつある事、また、これ以上の基地負担に県民の犠牲は許されない事を理解すべきであります。

 私は沖縄県民の生命と財産、尊厳と人権、そして将来の子や孫の安心と安全を守るべき知事として、このような事件が二度と起きないよう、県民の先頭に立って、日米地位協定の抜本的見直し、海兵隊の撤退、削減を含む基地の整理縮小、新辺野古基地建設阻止に取り組んでいく不退転の決意をここに表明し、私のご挨拶といたします。

(その2) オール沖縄共同代表、玉城 愛さん(21歳)の挨拶(要約)
 安倍晋三さん。日本本土にお住いの皆さま。今回の事件の¨第2の加害者¨はあなた達です。しっかりと沖縄と向き合っていただけませんか。いつまで私達沖縄はバカにされるのでしょう。パトカーを増やして護身術を学べば、私達の命は安全なのか、バカにしないで下さい。

 バラク・オバマさん。アメリカから日本を開放して下さい。そうしなければ沖縄に自由と民主主義が存在しないのです。私達は奴隷ではないのです。あなたや、米国に住む市民の皆さん、被害者とウチナンチュー(沖縄の人)に真剣に向かい合い、謝って下さい。
 会場にお集まりの皆さん。幸せに生きるって何なのでしょうか。一人一人が大切にされる社会とはどんな形をしているのでしょうか。大切な人が隣りに居る幸せ、¨人間の命こそ宝¨なのだという沖縄の精神、私はウチナンチューであることに誇りを持っております。

(その3) 被害者の父のメッセージ(代読)
 ご来場の皆様へ。米軍人・軍属による事件事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。何故娘なのか。何故殺されなければならなかったのか。
今まで被害に遭った遺族の思いも同じだと思います。被害者の無念は計り知れない悲しみ
、苦しみ、怒りとなっていくのです。
それでも遺族は、安らかに成仏してくれることだけを願っているのです。次の被害を出さない為にも全基地撤去。辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています。県民、名護市民として強く願っています。
 ご来場の皆さまには、心より感謝申し上げます。
平成28年6月19日、娘の父より
                                   2016.6.21日の記


奥田のコラム(NO246) オバマ米大統領の広島訪問 ( 2016/05/31 )

 
 広島で献花するオバマ大統領

 
 原爆ドームの前でスピーチするオバマ大統領

 
 坪井直さんと握手するオバマ大統領

 
 森重明さんとの抱擁

 
 

 
 

アメリカのオバマ大統領が5月27日に広島を訪問されました。
1945年8月6日、広島に原爆が投下されてから実に71年の歳月が流れているのだそうです。

 2009年のプラハ演説で「核兵器なき世界」を提唱し、ノーベル平和賞を受賞されたオバマ大統領にとって、今回の広島訪問こそは、大統領の任務を締めくくる為にも、伊勢志摩サミットにも優るとも劣らない重要な訪問であったに違いありません。

 オバマ大統領は、伊勢志摩サミットを終えたすぐその足で、広島に向かわれました。
広島平和記念公園に到着後、すぐ原爆記念館に入られ、次に原爆慰霊碑に献花、深く静かに黙祷を捧げた後、17分間にわたるスピーチをされました。

 スピーチの内容はやや難しく、私の理解度は半分位でしかありませんでしたが、その後の新聞報道などで、おおよその理解は得られました。私の心に残ったスピーチの骨子は次の様なものでした。

・ 私(オバマ大統領)は、広島・長崎で犠牲となられた全ての人達を追悼する為にやってきました。
・ 広島・長崎は歴史の真実を教えてくれます。広島・長崎の記憶を永久に風化させてはなりません。我々は広島・長崎から真の平和の尊さを学び、後世に伝えなければなら  ない義務と責任があるのです。
・ 科学の進歩は、それと同等の人間社会の進歩が伴わなければ、人類をも滅ぼしかねません。科学の革命には、道徳上の革命も求められているのです。
・ 我々は核兵器無き世界を追及する勇気を持ち、核廃絶に向けての努力を続けなければなりません。

 オバマ大統領はスピーチを終えた後、原水爆協議会の坪井直さん(91歳)のもとに歩み寄り、力強い握手を交わされました。この時坪井さんは、オバマ大統領に向かって¨原爆投下はアメリカだけの責任ではなく、人類全体の責任でもある¨と伝えたのだそうです。実に感動的な言葉であったと私は思っております。

 次にオバマ大統領が握手を交わし、強く抱き合ったのは、被爆者代表の森重明さん(79歳)でした。無言で涙にむせぶ抱擁の姿は、万人の心に響いたに違いありません。
 私はあの時の瞬間から、日米の原爆不協和音は一気に友情の和音に姿を変えたのではないかと思える程の感動でした。

 私は長く沖縄にご縁をいただき、45年近く沖縄に住んでおります。沖縄にはあまりに多くの米軍基地が置かれているが故に、沢山の不幸な事件も起こっております。
日米両国が本気になって相手国を思いやれる関係になってもらいたいと切に願う者であります。

 オバマ大統領の広島訪問は、やがて大統領の任務を終えられた後も、¨核なき世界¨へのトップリーダーのお一人として活躍してくれるであろう期待感を抱かせてくれるものでありました。期待したいものであります。
オバマ大統領の広島訪問に心から感謝したいと思います。
                        2016・5・31日の記

PS: 私の末息子は15歳でアメリカ留学をさせていただき、その後もアメリカに住み、アメリカ女性と結婚し、二人の女の子にも恵まれ、ささやかながらも幸せな人生を歩ませていただいております。私の知る限り、アメリカの人達は本当に親切で、思いやりがあって、家族を大切にするいい人達ばかりです。私は日本とアメリカが、親戚と思える程の親しい関係になってくれる事を心から希望しております。



奥田のコラム(NO245) 伊勢志摩サミットとオバマ大統領の広島訪問 ( 2016/05/31 )

 
 伊勢志摩サミット各国首相の記念撮影

 
 伊勢志摩サミット昼食風景

 
 伊勢神宮を訪れた各国の首相達

 
 

 
 

 
 

 2016年5月末の数日間は、上記の大きな政治的な出来事が日本中を駆け巡りました。政治事にはあまり拘りたくない私ですが、流石に日本におけるサミットG−7と、オバマ米大統領の広島訪問のビッグ・ニュースには目を向けないではいられませんでした。

*伊勢志摩サミットG―7について

 私の目に映った伊勢志摩サミットG−7は、大金を使い大騒ぎをした割には、殆ど印象に残るものはありませんでした。あえて印象を挙げるとすれば、安倍総理の自作自演による自らを目立たせる為の、一大パフオーマンスでしかあり得なかった様に思えて仕方ありません。

 安倍総理がこの時とばかりに力説した¨リーマンショック伝伝¨の発表も、必ずしも他国の首相には受け入れられず、ちょっとピントはずれの日本の総理大臣という印象だけが残ってしまいました。

 今回のG−7で一番大きく取り上げてもらいたかった事の一つは、例の¨パナマ文書¨の問題ではなかったのでしょうか。いま世界中の善良なる市民は¨パナマ文章¨の真実に関心を寄せているに違いありません。にもかかわらず、パナマ文書問題が今回のG―7のほんの片隅にしか置かれなかったのは、裏を返せば、各国の首脳の中にも政治(家)とお金の問題には触れられたくない・・・との意思の表れだったのかも知れません。¨パナマ文書¨の解明はG−7が終わった後も、決して避けては通れない世界の大問題だと思います。大いなる解明を期待したいものであります。

*2000年、沖縄サミットの想い出

 今から16年前の2000年には沖縄でサミットG−7が開催されました。
沖縄サミットを決められたのは、小渕元総理であったそうです。でも小渕さんは突然の病に倒れ、変わって森総理がその代役を務められました。

 沖縄サミットの時、何かしらのご縁があって、私達はクリントン米大統領が宿泊される万座ビーチホテルのお部屋のディスプレイを依頼され、お手伝いをさせていただきました。
 その時クリントン大統領のお部屋を装った主なディスプレイは、いずれも沖縄と深い縁のある @ 書家による「芭蕉布」と「ゆうなの花」の書、A 画家による南国の花の絵、B 沖縄を代表する織物の芭蕉布のタペストリー、C 著名な沖縄の陶芸家の作品と、エイサーを踊る愉快なシーサー達の彫刻でありました。

 後日、その時のディスプレイが大変気に入ってもらえたとの報告をいただき、私達は大変光栄でした。今から16年前の懐かしい沖縄サミットの想い出です。
                      2016年5月30日の記

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